第87話「真理子の告白」
美波は機材をセッティングした。カセットデッキ、スピーカー、ノートパソコン、録音用のマイク。すべてをケーブルで繋いでいく。「カチッ、カチッ」という接続音。
「これで音声をリアルタイムで録音する。そして同時に逆位相音を流す。73Hzを打ち消す」
凛はその隣に座った。心臓が速く打っている。緊張で手のひらが汗ばんでいる。
「心拍数、測っておこう」美波が言った。
凛は自分の手首に指を当てた。橈骨動脈。脈を測る。
ドクン…ドクン…ドクン…
15秒で17回。1分で68回。
「68。まだ正常」凛が報告した。
「よし」美波が頷いた。「じゃあ始めよう」
凛はカセットテープをデッキに挿入した。カチャッという音。テープが収まる。再生ボタンに指を置く。
美波がノートパソコンのキーを叩く。「カタカタカタ」という音。
「逆位相音準備完了。録音開始」画面にリアルタイムの波形が表示される。「いつでもいいよ」
凛は深呼吸をした。一度。二度。三度。肺に空気を満たす。そして吐き出す。
再生ボタンを押した。
カチッ。
テープが動き始めた。「ウィーン」というモーター音。
ヒス――というテープノイズ。白い雑音。
そして最初の音が流れてきた。
呼吸だった。女性の呼吸。ゆっくりと深く。緊張した呼吸。
そして声。
「私の名前は――柳沢真理子。42歳。ピアニスト」
凛と美波は息を詰めて聞いた。身動きせずに。
真理子の声は落ち着いていた。でもどこか悲しみを含んでいた。諦めのような。覚悟のような。
「1998年11月15日。今日、私は記録されます。夫・正臣の実験の最初の被験者として」
凛は画面を見た。美波のノートパソコン。波形が激しく動いている。上下に揺れる線。
そして73Hzのピーク。確かにある。赤い線で示されている。
でも逆位相音も同時に流れている。青い線。打ち消し合っている。今のところ大丈夫。
真理子の声が続く。
「怖い? もちろん怖い。でも私にはもう時間がない」
「私は末期の癌です。膵臓癌ステージ4。余命は3ヶ月」
凛の胸が締め付けられた。呼吸が浅くなる。
「でも正臣は言いました。記録すれば永遠に生きられると。意識を保存できると。そしていつか蘇らせることができると」
真理子は死を目前にしていた。でも夫を信じた。科学を信じた。永遠になれると信じた。
「美咲……」真理子の声が震えた。涙声になった。
「私の愛する娘。あなたを残して逝くのが一番辛い」
「でももし――この記録が成功すれば――私は消えない。あなたといつまでも一緒にいられる」
涙が凛の頬を伝った。温かい涙。止められない涙。
母の愛。娘への愛。
それがこの記録の始まりだった。
死への恐怖ではなく。愛ゆえに。娘のために。
真理子は自分を記録することを選んだ。




