第86話「カセットテープの到着」
12月6日 土曜日 午前9時。
凛は目が覚めた。窓の外は灰色の空。冬の朝特有の重苦しい空気が部屋に満ちている。
今日――カセットテープが届く日。
真理子の声。美咲の母親の記録。そして5つのメディアのうち2つ目。
ベッドから起き上がると、美波はすでに起きていた。リビングのテーブルでノートパソコンを開いて何かを準備している。画面の光が彼女の顔を青白く照らしていた。
「おはよう、美波」
「おはよう、凛」
「何してるの?」
「逆位相音の調整」美波が答えた。画面には複雑な波形が表示されている。「今日、カセットテープ見るでしょ。だから万全の準備を」
凛は美波の横に座った。画面の波形は前より明らかに複雑になっている。
「これ、前より複雑になってる」
「うん」美波が説明した。「カセットテープはVHSより危険かもしれない」
「なぜ?」
「音声だけだから。映像がないと音に集中してしまう。そして聴覚は視覚より脳の深部に直接届く」
凛はゾッとした。背筋に冷たいものが走る。VHSでもあれだけ影響を受けた。心拍数が68から76に上がった。カセットテープはもっと強いかもしれない。
「でも」凛が言った。「見なきゃいけない。5つ集めないと上書き消去できない」
美波は頷いた。「分かってる。だから準備してる。今回はもっと強力な逆位相音を。そしてすぐに止められるように、私がずっと横にいる」
凛は美波の手を握った。温かい手。生きている手。
「ありがとう。本当に、あなたがいなかったら、私どうなってたか……」
美波が優しく微笑んだ。「当たり前でしょ。友達だもん」
二人は朝食を作った。トースト、卵、コーヒー。いつもの朝食。でも今日は特別な日。カセットテープが届く日。次のステップに進む日。そして、もしかしたらより深く記録に侵食される日。
午前10時30分。
ピンポーン――
インターホンの音が静かな部屋に響いた。
凛と美波は顔を見合わせた。
「来た……」凛が呟いた。
深呼吸。肺に空気を満たす。そしてドアを開けた。
配達員が立っていた。無表情。まるで機械のような。
「佐々木様ですね」
「はい」
「こちら、お届けものです」
小さな封筒。凛はそれを受け取った。軽い。100グラムもない。
「ありがとうございました」
配達員が去っていく。階段を降りる足音が遠ざかる。
凛は封筒をじっと見つめた。差出人の名前。marie_1985。またこの名前。中にはカセットテープ。真理子の声。記録の2つ目のピース。
部屋に戻る。美波がすでに準備していた。テーブルの上に古いカセットデッキ。実家から借りてきたもの。SONY製。1990年代の機種。ベージュ色のプラスチック。まだ動く。
「開ける?」美波が聞いた。
凛は頷いた。封筒を開ける。「ビリッ」という紙の音。
中からカセットテープが出てきた。透明なケース。中に茶色い磁気テープ。ラベルには手書きで「真理子の声 - 1998.11.15」と書かれていた。文字は震えている。
「1998年……」凛が呟いた。「美咲の実験より1年前」
「そう」美波が答えた。「フロッピーディスクの被験者リストにあった。真理子は最初の被験者。でも状態は『不完全』だった」
凛はカセットテープを手に取った。冷たい。VHSテープほどではないが、確かに異様な冷たさがある。まるで氷のような。いや、もっと深い冷たさ。時間の冷たさ。
「凛」美波が言った。「本当に見る? まだ引き返せるよ」
凛はしばらく考えた。窓の外を見る。灰色の空。
そして答えた。
「見る。5つ集めないと元に戻れない。それに真理子のこと、知りたい。美咲の母親が何を残したのか」
美波は頷いた。「分かった。じゃあ、準備始めよう」




