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ムネモシュネの箱 ― 73Hzの永遠 ―  作者: 大西さん
プロローグ「記録された夜」
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第05話「最初の音」

美咲は、ゆっくりと深呼吸をした。


肺を満たす空気には、機械たちが発するオゾンの匂いと、磁気テープの甘い匂いが混じっていた。そして、鼻腔の奥をかすかに刺激する消毒液の匂い。


息を吸うたびに、胸の奥が痛んだ。


肋骨がきしみ、一つ一つの肺胞が、悲鳴を上げながら破れていくような、そんな感覚。それでも、彼女の指は震えていなかった。


覚悟は、できていた。


「お母さん、私、そっちに行くね」


舌を軽く噛む。鋭い痛みで、朦朧としがちな意識をはっきりとさせる。口の中に、またあの濃い鉄の味が広がった。まるで、錆びた銅貨を舐めているようだ。


最初の音を、弾いた。


ドビュッシーの『月の光』。


Des-dur(変ニ長調)の静謐なアルペジオが、音の墓場である防音室を満たす。最初の和音、Des-F-As。指が鍵盤を撫でる、その感触。象牙の滑らかさと、長年の使用で刻まれた微細な凹凸。


音は壁にぶつかって跳ね返ることなく、天井から垂れ下がる無数の吸音材に、まるで水が砂に染み込むように、ゆっくりと吸い込まれていく。


音そのものが物質となり、壁に染み込んでいくような、不思議な光景。


鍵盤が、徐々に熱を帯びていく。37度を超え、38度、39度へ。まるで、ピアノ自体が熱病に浮かされているかのようだ。


二小節目で、異変が起きた。


美咲の指が、彼女の意識とは無関係に、別の音を弾き始めた。『月の光』の優美な旋律に、異質な、しかしどこか懐かしいメロディが割り込んでくる。


『とおりゃんせ』


母が、病床で最後に歌ってくれた子守唄。


なぜ、今、この曲が。


「お母さん…? お母さんなの?」


美咲の目から、熱い涙が溢れ出した。それは悲しみの涙ではなく、再会の涙だった。


だが、止められない。


指が、まるで別の誰かに操られているかのように、勝手に動く。二つの旋律が絡み合い、不協和音を生み出し、そしてやがて、奇妙に美しい、新しい音楽が生まれていく。


クラシックと童謡、西洋と東洋、生者のための音楽と死者のための子守唄。


あらゆる境界が、曖昧模糊となって溶け合っていく。


美咲の心臓のリズムが、その新しい音楽と完全に同期し始める。


ドクン…ドクン…ドクン…


毎分73拍。


そして、部屋中の機械たちもまた、同じリズムで唸り始めた。


ブゥゥン…ブゥゥン…ブゥゥン… カチャ…カチャ…カチャ… ピッ…ピッ…ピッ…


世界が、73という一つのリズムに収束していく。


「素晴らしい…完璧だ…」


父の恍惚とした呟きと同時に、全ての記録装置の録音ボタンが、一斉に押された。

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