第56話「夜の訪問者」
午後7時。
美波はまだ作業を続けていた。ノートパソコンの画面が彼女の顔を青白く照らしている。
凛はキッチンでお茶を入れた。緑茶。湯気が立ち上る。
「美波、お茶」
「ありがとう」
美波がカップを受け取る。一口飲む。
「美味しい」
「ごめんね、遅くまで」
「いいよ」
美波が微笑んだ。疲れているはずなのに、目は輝いている。
「これ、面白いから。音響解析、好きなんだ。でも――こんな複雑なの、初めて」
彼女は画面を見つめる。
「73Hzだけじゃない。この信号には、もっと深い層がある」
「層?」
「うん」
美波が説明を始めた。専門家の顔になる。
「表面的には73Hzの正弦波。でも、その中に微細な変調が無数にある。振幅変調、周波数変調、位相変調。すべてが組み合わさって、複雑な情報を運んでいる」
「情報……」
「そう」
美波が真剣な顔で言った。
「これは、ただの音じゃない。データなんだ。意識をデジタル化したデータ。それをアナログの音波として記録している」
美波が画面を指差す。無数の波形が重なり合っている。
「すごい技術だ。柳沢正臣は本物の天才だったんだ」
その時――
ピンポーン――
インターホンが鳴った。
凛と美波は顔を見合わせた。午後7時。こんな時間に誰?
「誰だろう」
凛がモニターを見る。
でも――誰も映っていない。
「変だな……」
凛はドアに近づいた。床を裸足で歩く。冷たい。
そして――ドアスコープから覗く。
廊下には誰もいない。非常灯の緑色の光だけが静かに点滅している。
「いたずら?」
凛が呟いた。
でも――その瞬間――
ドアの下の隙間から何かが滑り込んできた。
封筒。白い封筒。
凛はそれを拾い上げた。紙の手触り。少し湿っている。
表には手書きで一行。
「佐々木凛様」
裏には何も書いていない。
「何それ?」
美波が近づいてくる。
「分からない……」
凛は封筒を開けた。中には一枚の紙。
そこには手書きで、たった一行。
「母に、聞きなさい。すべてを」




