第03話「父という名の記録者」
「準備はいいかい、美咲」
父・柳沢正臣の声が、防音室のスピーカーから響いた。
感情という潤滑油を完全に削ぎ落とした、音の羅列のようだった。だが、高性能なマイクでその声の波形を拾えば、きっと分かるだろう。その声が、人間の耳では感知できない周波数帯で、微かに震えていることを。
それは恐怖か、興奮か、それとも娘への愛情か。
美咲には、もう分からなかった。
「お父さん、私、怖い」
美咲の声は、マイクを通して父の耳に届く。だが、返事はない。ただ、機械を操作する音だけが聞こえてくる。
白衣を纏った父の背中は、分厚い壁のように広く、一度もこちらを振り返らない。
彼の手は、まるで外科医のように機械的で正確な動きで、無数のケーブルを接続していく。だが、その手が先ほど美咲の額に触れて熱を測った時、彼女はその手が死人のように冷え切っていることを知っていた。
「お父さん、私のこと、愛してる?」
美咲の問いかけに、正臣の手が一瞬止まった。
だが、すぐにまた動き始める。
「愛しているさ。だからこそ、お前を永遠にするんだ」
「でも、永遠になったら、私は私じゃなくなるんでしょう?」
「いいや、お前はより完全な美咲になる。劣化しない、忘れない、死なない美咲に」
銀色のXLRケーブル、赤と白のRCAケーブル、黒いBNC同軸ケーブル。
それらが床を這い、まるで電子の蛇のように絡み合いながら、部屋の壁際に並べられた複数の記録装置へと伸びていく。ケーブルのビニール被膜が擦れる、シュルシュルという乾いた音が、この無響空間ではやけに大きく聞こえた。
やがて、記録装置たちが、それぞれの生命活動を開始する準備音を立て始めた。
VHSデッキ『Victor HR-D725』――1999年当時の最高級S-VHS対応機。
電源を入れると、内部の大型トランスが「ブゥゥン」という低い唸りを上げる。50Hzの商用電源が引き起こすその振動は、床のフローリングを伝わり、美咲の素足の裏を微かにくすぐった。
「これが、私を記録する機械…」
美咲は、恐怖と好奇心の入り混じった目で、機械たちを見つめた。
カセットデッキ『Nakamichi Dragon』――再生ヘッドがテープのアジマス(傾き)を自動調整する、伝説のオートリバース機構を搭載した名機。
電源投入と共に、ヘッドブロックが位置調整を始める「カチャ、カチャ」という金属音が、まるで精密機械の呼吸のように聞こえた。
「機械も、生きてるみたい」
MDレコーダー『SONY MZ-R50』――当時世界最小・最軽量を誇った録音機。
レーザーピックアップが起動する「ピッ」という短い電子音の後、ディスクを回転させるモーターが、人間の耳にはほとんど聞こえない20kHzの高周波を発する。だが、聴覚が過敏になっている美咲には、それがキーンという耳鳴りのように頭の奥で響いていた。
「頭が、痛い…」




