第37話「73の夢」
午後11時。凛は眠ることにした。
ベッドに入る。掛け布団をかける。電気を消す。
暗闇。
目を閉じる。
でも――眠れない。
頭の中でいろんなことが渦巻いている。
VHSテープ。73Hz。柳沢正臣。父。美月。美波。
すべてが混ざり合って、整理できない。
凛は無理やり目を閉じた。羊を数える。
1、2、3、4……
73。
また、この数字。
凛は数えるのをやめた。
そして――いつの間にか、眠りに落ちていた。
夢を見た。
防音室の夢。
グレーの壁。三重構造のグラスウール。吸音材が音を吸収する。絶対的な静寂。
グランドピアノ。黒い巨体。Steinway & Sons。
そして――ピアノの前に少女が座っている。
白いワンピース。長い黒髪。痩せた身体。骨が浮き出ている腕。
美咲?
いや――違う。
この少女は凛自身だ。
凛がピアノの前に座っている。
「弾きなさい」
声が聞こえた。男の声。低い声。感情のない、機械的な声。
「お父さん……?」
凛が呟いた。声が防音室に吸収される。
でも――振り返ることができない。身体が動かない。金縛りのように。
「弾きなさい」
声が繰り返す。
「お前の意識を記録するんだ。そして――永遠になるんだ」
凛の指が勝手に動き始めた。
鍵盤に触れる。象牙の冷たさが指先に伝わる。死人の肌のような冷たさ。
そして――音が鳴った。
ドビュッシー「月の光」。
美しい旋律。だが、どこか不吉な響き。
なぜ弾けるんだろう。ピアノなんて習ったことも、ないのに。
でも、指が知っている。勝手に動く。筋肉が記憶している。
そして――別の旋律が重なってくる。
「とおりゃんせ」。童謡。
行きはよいよい 帰りはこわい
二つの旋律が絡み合う。不協和音。だが――不思議と美しい。
そして――心臓がリズムを刻み始めた。
ドクン…ドクン…ドクン…
73回/分。
「そうだ」
声が言った。満足そうに。
「完璧だ。お前は記録される。そして――永遠になる」
その瞬間――
凛は目が覚めた。




