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ムネモシュネの箱 ― 73Hzの永遠 ―  作者: 大西さん
第一章「フリマアプリの誘惑」
32/43

第31話「昼休み」

午後12時。昼休みの時間。


凛は学食に向かった。


いつもはコンビニで買って部屋で食べる。一人の空間で、誰にも見られずに。だが今日は――なぜか学食に行きたくなった。


人がいる場所。賑やかな場所。


一人でいることが、今日は少し怖かった。


学食は混んでいた。学生たちで溢れ、話し声と笑い声が天井の高い空間に反響している。食器がぶつかる音、椅子が引かれる音、注文を呼ぶ声。


テーブルはほとんど埋まっている。四人席には四人が座り、二人席には二人が座り、みんな誰かと一緒だ。


凛はカウンターに並んだ。前の学生が注文している。


「カレーライス、お願いします」


凛が言うと、食堂のおばさんが手慣れた動作でカレーをよそってくれる。オレンジ色のルー、白い米。プラスチックのトレイに乗せられる。


「420円」


現金で支払う。財布の中の小銭が減っていく。


トレイを持って、空いている席を探す。視線が周囲を走査する。埋まっている、埋まっている、埋まっている――


あった。窓際の一人席。


そこに座った。椅子が冷たい。金属製のパイプ椅子は、この季節、座った瞬間にお尻から熱を奪っていく。


カレーを食べ始める。


スプーンでカレーをすくう。口に運ぶ。


でも――やはり味がしない。


スパイスの香りはする。カレー特有の複雑な香り。クミン、ターメリック、コリアンダー。鼻腔を刺激する匂い。


でも、味が分からない。ただ熱い。それだけ。


凛は周りを見回した。


みんな友達と話している。笑っている。楽しそう。


「昨日のバイト、まじでやばかった」 「え、何があったの?」 「それがさ――」


若者の会話が、断片的に耳に入ってくる。


その中で、凛だけが一人。


いつものこと。でも――今日は、その孤独がいつもより重く感じた。


「佐々木さん」


声をかけられた。


振り返ると――美波だった。トレイに野菜炒め定食を乗せている。白い湯気が立ち上っている。


「あ、美波さん」


「一緒に、いい?」


「うん」


美波が向かいの席に座った。椅子が「ギィ」と音を立てる。


「一人で食べてるの?」


「うん、いつも」


「そっか」


美波が少し寂しそうに笑った。


「私も今日は一人なんだ。いつも一緒の友達が休んじゃって」


二人でしばらく黙って食べた。


スプーンとフォークが皿に当たる音。咀嚼する音。飲み込む音。


そして――美波が口を開いた。


「ねえ、佐々木さん。趣味とか、ある?」


「趣味?」


凛は考えた。趣味。何だろう。特に、ない。


「ないかな」


「そっか。美波さんは?」


「私は――」


美波が嬉しそうに言った。目が輝いている。


「プログラミング。情報工学専攻だから」


「へえ」


「あと、音楽解析とか。音響工学にも興味があるんだ」


音響工学。


その言葉に、凛の耳が反応した。背筋がピリッとする。


「音響工学?」


「うん。音の波形をデータ化して分析するの。周波数とか、倍音とか」


「すごいね」


「そうかな?」


美波が照れくさそうに笑った。


「でも面白いよ。音って、いろんな情報を含んでるんだ。人間の耳には聞こえない音とかも」


人間の耳には聞こえない音。


凛は思い出した。今朝、電車の中で聞いたあの低い音。


ブーーーーーン……


「ねえ、美波さん」


「うん?」


「人間の耳に聞こえない音って、どんなの?」


「えっとね――」


美波が説明し始めた。その声は、専門知識を語る時の自信に満ちている。


「人間の可聴域は、だいたい20Hzから20kHz。それより低い音を超低周波、高い音を超音波って言うの」


「その音を聞くと、どうなるの?」


「聞こえないから意識では分からない。でも――身体には影響があるかもしれない。脳波とか、心拍数とか」


脳波。心拍数。


柳沢正臣の研究。意識の音響記録。


まさか――

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