第31話「昼休み」
午後12時。昼休みの時間。
凛は学食に向かった。
いつもはコンビニで買って部屋で食べる。一人の空間で、誰にも見られずに。だが今日は――なぜか学食に行きたくなった。
人がいる場所。賑やかな場所。
一人でいることが、今日は少し怖かった。
学食は混んでいた。学生たちで溢れ、話し声と笑い声が天井の高い空間に反響している。食器がぶつかる音、椅子が引かれる音、注文を呼ぶ声。
テーブルはほとんど埋まっている。四人席には四人が座り、二人席には二人が座り、みんな誰かと一緒だ。
凛はカウンターに並んだ。前の学生が注文している。
「カレーライス、お願いします」
凛が言うと、食堂のおばさんが手慣れた動作でカレーをよそってくれる。オレンジ色のルー、白い米。プラスチックのトレイに乗せられる。
「420円」
現金で支払う。財布の中の小銭が減っていく。
トレイを持って、空いている席を探す。視線が周囲を走査する。埋まっている、埋まっている、埋まっている――
あった。窓際の一人席。
そこに座った。椅子が冷たい。金属製のパイプ椅子は、この季節、座った瞬間にお尻から熱を奪っていく。
カレーを食べ始める。
スプーンでカレーをすくう。口に運ぶ。
でも――やはり味がしない。
スパイスの香りはする。カレー特有の複雑な香り。クミン、ターメリック、コリアンダー。鼻腔を刺激する匂い。
でも、味が分からない。ただ熱い。それだけ。
凛は周りを見回した。
みんな友達と話している。笑っている。楽しそう。
「昨日のバイト、まじでやばかった」 「え、何があったの?」 「それがさ――」
若者の会話が、断片的に耳に入ってくる。
その中で、凛だけが一人。
いつものこと。でも――今日は、その孤独がいつもより重く感じた。
「佐々木さん」
声をかけられた。
振り返ると――美波だった。トレイに野菜炒め定食を乗せている。白い湯気が立ち上っている。
「あ、美波さん」
「一緒に、いい?」
「うん」
美波が向かいの席に座った。椅子が「ギィ」と音を立てる。
「一人で食べてるの?」
「うん、いつも」
「そっか」
美波が少し寂しそうに笑った。
「私も今日は一人なんだ。いつも一緒の友達が休んじゃって」
二人でしばらく黙って食べた。
スプーンとフォークが皿に当たる音。咀嚼する音。飲み込む音。
そして――美波が口を開いた。
「ねえ、佐々木さん。趣味とか、ある?」
「趣味?」
凛は考えた。趣味。何だろう。特に、ない。
「ないかな」
「そっか。美波さんは?」
「私は――」
美波が嬉しそうに言った。目が輝いている。
「プログラミング。情報工学専攻だから」
「へえ」
「あと、音楽解析とか。音響工学にも興味があるんだ」
音響工学。
その言葉に、凛の耳が反応した。背筋がピリッとする。
「音響工学?」
「うん。音の波形をデータ化して分析するの。周波数とか、倍音とか」
「すごいね」
「そうかな?」
美波が照れくさそうに笑った。
「でも面白いよ。音って、いろんな情報を含んでるんだ。人間の耳には聞こえない音とかも」
人間の耳には聞こえない音。
凛は思い出した。今朝、電車の中で聞いたあの低い音。
ブーーーーーン……
「ねえ、美波さん」
「うん?」
「人間の耳に聞こえない音って、どんなの?」
「えっとね――」
美波が説明し始めた。その声は、専門知識を語る時の自信に満ちている。
「人間の可聴域は、だいたい20Hzから20kHz。それより低い音を超低周波、高い音を超音波って言うの」
「その音を聞くと、どうなるの?」
「聞こえないから意識では分からない。でも――身体には影響があるかもしれない。脳波とか、心拍数とか」
脳波。心拍数。
柳沢正臣の研究。意識の音響記録。
まさか――




