第02話「機械たちの呼吸」
口の中は、薬の苦味の展覧会だった。
モルヒネの痺れるような苦さ、ステロイドの粉っぽい味、制吐剤の化学的な後味。それらが混じり合い、舌の味蕾を麻痺させる。時々、弱くなった歯茎から滲み出す血の鉄味が、その苦いパレットに生々しい赤を塗りつけた。
今日は特に血の味が強い。
夕食後、歯を磨いた時、歯ブラシの白いナイロン毛が、まるで絵の具を吸い込んだかのように真っ赤に染まったのを、彼女はぼんやりと思い出した。
「お父さんは、私のことを愛してるの? それとも、実験動物としか見てないの?」
その問いに答える者は、いない。
黒いグランドピアノの前に、彼女は静かに座った。
Steinway & Sons、Model D-274。コンサートグランドと呼ばれる、274センチの黒い巨体。それはピアノという楽器ではなく、巨大な黒い鯨の骸のように、部屋の中央に鎮座していた。
黄ばみ、所々に蜘蛛の巣のような細いヒビが入った象牙の鍵盤。
その一つに、彼女の鳥の骨のように細い指が触れた瞬間、死人の肌のような冷たさが、神経のハイウェイを駆け上がって脳幹まで達した。全身の産毛が、その冷たさに総毛立つ。
だが、不思議なことに、指を置いたままにしていると、鍵盤が彼女の体温を吸い取るかのように、じわりと温もりを取り戻していく。
いや、違う。
これは、ピアノが美咲に体温を分け与えているのだ。
摂氏37度。健康な人間の、平熱。
母・真理子が、この鍵盤に最後に触れた時の、その温度。
「お母さん…会いたい…」
美咲は、鍵盤に額を押し付けた。冷たい象牙が、熱を持った額に心地よい。涙が、鍵盤の上に落ちて、小さな水たまりを作る。
このピアノの匂いを、美咲は知っていた。
木とニス、羊毛のフェルトと冷たい金属。そして、それら全てを包み込む、母が愛用していた香水の残り香。シャネルNo.5。パウダリーで、甘く、官能的で、そして今は死の匂いと分かちがたく結びついた香り。
一年前の今日、この時刻、母はこの椅子に座っていた。
そして、二度と立ち上がることはなかった。
「お母さんも、同じ実験を受けたんでしょう? 痛かった? 苦しかった? 最後に、何を思ったの?」
美咲の心臓が、メトロノームのように正確なリズムを刻む。
ドクン…ドクン…ドクン…
毎分73回。
安静時にしては、少し速い。だが、白血病が進行してから、彼女の心臓は常にこのリズムで、必死に酸素の足りない血液を全身に送り続けていた。
73。
それは、彼女に残された、生命のBPM。
「73…お父さんが言ってた数字。私の魂の周波数だって。でも、魂に周波数なんてあるの?」




