第27話「教育心理学」
午前9時。
教授が入ってきた。60代の男性教授。白髪交じりの髪、黒縁の眼鏡、いつもの茶色いジャケット。手には分厚い資料の束。
「おはよう」
教授の声は低く、よく通る。
「出席を取ります」
名簿を見ながら、名前を呼んでいく。
「相川」――「はい」 「石田」――「はい」 「上田」――「はい」
凛の番が来た。
「佐々木」
「はい」
小さな声で答える。できるだけ目立たないように。
教授がチェックする。そして次の名前へ。
出席確認が終わった。授業が始まる。
「今日は――」
教授がプロジェクターのスイッチを入れた。
「記憶について話します」
記憶。
その言葉が、凛の耳に引っかかった。
「人間の記憶とは、脳のどこに保存されるのか。そして、記憶はどのように形成されるのか」
スクリーンに脳の断面図が映し出される。カラフルな図。海馬が赤、前頭葉が青、側頭葉が緑で塗り分けられている。
「海馬は短期記憶を長期記憶に変換する重要な役割を果たします。しかし――記憶は一箇所に保存されるわけではありません。脳全体に分散して保存されます」
凛はノートにメモを取りながら、でも頭の中では別のことを考えていた。
記憶。
昨夜、VHSテープを見た時――何か懐かしい気がした。
なぜ?
見たことも―― ないのに―― なぜ―― 懐かしい?
それは記憶? いや、記憶のはずがない。生まれた時にはもう、VHSは廃れていた。見たことも、触ったことも、ない。
なのに――なぜ?
「記憶には偽記憶というものもあります」
教授の声が、凛の思考を遮った。
「実際には経験していないのに、経験したと思い込む記憶です。他者の話を聞いたり、写真を見たりすることで、それが自分の経験だったと錯覚することがあります」
偽記憶。
その言葉が、凛の心に刺さった。
もしかして――あの懐かしさは偽記憶?
誰かから聞いた話を、自分の記憶だと思い込んでいる?
でも――誰から?
母? いや、母とはそんな話をしたことがない。
父?
父のことは、ほとんど覚えていない。10歳の時に失踪した。それ以来、会っていない。
そもそも父との記憶自体、ほとんどない。
ぼんやりとした印象だけ。背の高い男性。眼鏡をかけていた。いつも何か考え込んでいるような表情。そして――冷たい手。
父が頭を撫でてくれた時の感触を、わずかに覚えている。冷たかった。まるで、感情のない機械のような。
凛は再び、考え込んでしまった。




