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ムネモシュネの箱 ― 73Hzの永遠 ―  作者: 大西さん
プロローグ「記録された夜」
20/43

第19話「香織の決断」

1999年12月3日 金曜日 午前3時


正臣が隆を別室のベッドに運んだ後、実験室の扉が静かに開いた。


一人の女性が入ってきた。


結城香織、27歳。音響工学の研究助手。


身長162センチ、肩までの黒髪、知的な顔立ち。白衣を着ているが、その下のブラウスとスカートは、研究室にいる女性としては珍しく、洒落た印象を与える。


そして――隆が愛した女性。


香織は実験室の中を見回した。5つの記録装置が並ぶ部屋。中央には、まだ隆の体温が残る椅子。そして、彼の涙の染みがついたシャツが、床に落ちている。


「先生」


香織の声は落ち着いていた。だが、その目は赤く腫れていた。泣いた後だ。


「隆さんは――」


「生きています」


正臣が答えた。


「意識を失っているだけです。数時間で目覚めるでしょう。でも――」


正臣が言葉を切った。その先を言う必要はなかった。


香織の声が震えた。


「彼はもう――彼じゃないんですよね」


正臣は何も答えず、ただ黙って頷いた。


意識は記録された。脳波パターンは転写された。だが、それは「隆」なのか? コピーされた記録は、オリジナルと同じ存在なのか?


哲学的な問いだ。そして、答えのない問いだ。


香織は録音機材を見つめた。


そこには隆の声が記録されている。彼の人生が。彼の愛が。すべてが。


VHSテープ、カセットテープ、MD、フロッピーディスク、8mmフィルム。


5つのメディアの中に、隆は存在している。


いや――存在している「ような気がする」だけかもしれない。


「私――」


香織が静かに言った。


「聞きました」


正臣の目が見開いた。


「え?」


「隣の部屋で。すべて聞いていました。73分間」


香織の声には、穏やかな悲しみがあった。


正臣の顔が、わずかに動揺した。


「君は――彼の告白を――」


「はい。隆さんの気持ち。ずっと前から知ってました」


香織が微笑んだ。悲しい微笑みだった。


「でも――私も臆病だったんです。言えなかった。私も、あなたを愛してるって」


彼女の目から、涙が一筋流れた。


実験室の蛍光灯が、その涙を冷たく照らす。涙は頬を伝い、顎から落ちて、白衣の襟に小さな染みを作った。


「でも、もう――遅い」


香織の声が掠れた。


「彼は記録された。意識を転写された。もう――戻らない」


正臣は何も言えなかった。


科学者としての成功。意識の記録という、人類史上初の偉業。


だが――人間としての罪。


二人の人間の人生を、取り返しのつかない形で変えてしまった罪。


その重さが、今、正臣の肩に圧し掛かっていた。


「先生」


香織が決然とした声で言った。涙を拭い、真っ直ぐ正臣を見つめる。


「私、辞めます。この研究室を。そして――もう二度と、この研究には関わりません」


正臣は頷いた。


「そうしなさい。君は――まだ引き返せる」


「でも――」


香織が自分のお腹に、そっと手を当てた。


その仕草を見て、正臣の表情が変わった。


「一つだけ、言わせてください」


香織が深呼吸をした。次の言葉を発するために、勇気を集めているようだった。


「私――妊娠しています」


正臣の目が、大きく見開いた。


「何……?」


「隆さんの子供です。3ヶ月前――一度だけ、一緒になりました」


香織の手が、優しくお腹を撫でる。まだ膨らみはない。だが、その中には確かに、新しい命が宿っている。


「そして――今、お腹に新しい命がいます」


部屋に重い沈黙が落ちた。


記録装置たちは沈黙している。すでに電源は切られている。だが、『ムネモシュネ』の箱だけは、微かに鼓動を続けていた。


ドクン…ドクン…ドクン…


219回/分。


三つの心臓が、一つのリズムで。


「この子には――」


香織が続けた。その声は強かった。母親の声だった。


「普通の人生を送らせます。記録も、転写も、73Hzも――何も知らせずに。ただ――幸せに生きてほしい」


正臣は深くため息をついた。そして、重い口を開いた。


「いつか――その子が真実を知る日が来るかもしれない。記録は消えない。いつか、誰かの手に渡る。そして、再生される。その時――」


香織が強い目で正臣を見た。


「その時は――私が守ります。この子を。どんなことがあっても」


彼女の目には、揺るぎない決意があった。


母親の目だった。

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