第19話「香織の決断」
1999年12月3日 金曜日 午前3時
正臣が隆を別室のベッドに運んだ後、実験室の扉が静かに開いた。
一人の女性が入ってきた。
結城香織、27歳。音響工学の研究助手。
身長162センチ、肩までの黒髪、知的な顔立ち。白衣を着ているが、その下のブラウスとスカートは、研究室にいる女性としては珍しく、洒落た印象を与える。
そして――隆が愛した女性。
香織は実験室の中を見回した。5つの記録装置が並ぶ部屋。中央には、まだ隆の体温が残る椅子。そして、彼の涙の染みがついたシャツが、床に落ちている。
「先生」
香織の声は落ち着いていた。だが、その目は赤く腫れていた。泣いた後だ。
「隆さんは――」
「生きています」
正臣が答えた。
「意識を失っているだけです。数時間で目覚めるでしょう。でも――」
正臣が言葉を切った。その先を言う必要はなかった。
香織の声が震えた。
「彼はもう――彼じゃないんですよね」
正臣は何も答えず、ただ黙って頷いた。
意識は記録された。脳波パターンは転写された。だが、それは「隆」なのか? コピーされた記録は、オリジナルと同じ存在なのか?
哲学的な問いだ。そして、答えのない問いだ。
香織は録音機材を見つめた。
そこには隆の声が記録されている。彼の人生が。彼の愛が。すべてが。
VHSテープ、カセットテープ、MD、フロッピーディスク、8mmフィルム。
5つのメディアの中に、隆は存在している。
いや――存在している「ような気がする」だけかもしれない。
「私――」
香織が静かに言った。
「聞きました」
正臣の目が見開いた。
「え?」
「隣の部屋で。すべて聞いていました。73分間」
香織の声には、穏やかな悲しみがあった。
正臣の顔が、わずかに動揺した。
「君は――彼の告白を――」
「はい。隆さんの気持ち。ずっと前から知ってました」
香織が微笑んだ。悲しい微笑みだった。
「でも――私も臆病だったんです。言えなかった。私も、あなたを愛してるって」
彼女の目から、涙が一筋流れた。
実験室の蛍光灯が、その涙を冷たく照らす。涙は頬を伝い、顎から落ちて、白衣の襟に小さな染みを作った。
「でも、もう――遅い」
香織の声が掠れた。
「彼は記録された。意識を転写された。もう――戻らない」
正臣は何も言えなかった。
科学者としての成功。意識の記録という、人類史上初の偉業。
だが――人間としての罪。
二人の人間の人生を、取り返しのつかない形で変えてしまった罪。
その重さが、今、正臣の肩に圧し掛かっていた。
「先生」
香織が決然とした声で言った。涙を拭い、真っ直ぐ正臣を見つめる。
「私、辞めます。この研究室を。そして――もう二度と、この研究には関わりません」
正臣は頷いた。
「そうしなさい。君は――まだ引き返せる」
「でも――」
香織が自分のお腹に、そっと手を当てた。
その仕草を見て、正臣の表情が変わった。
「一つだけ、言わせてください」
香織が深呼吸をした。次の言葉を発するために、勇気を集めているようだった。
「私――妊娠しています」
正臣の目が、大きく見開いた。
「何……?」
「隆さんの子供です。3ヶ月前――一度だけ、一緒になりました」
香織の手が、優しくお腹を撫でる。まだ膨らみはない。だが、その中には確かに、新しい命が宿っている。
「そして――今、お腹に新しい命がいます」
部屋に重い沈黙が落ちた。
記録装置たちは沈黙している。すでに電源は切られている。だが、『ムネモシュネ』の箱だけは、微かに鼓動を続けていた。
ドクン…ドクン…ドクン…
219回/分。
三つの心臓が、一つのリズムで。
「この子には――」
香織が続けた。その声は強かった。母親の声だった。
「普通の人生を送らせます。記録も、転写も、73Hzも――何も知らせずに。ただ――幸せに生きてほしい」
正臣は深くため息をついた。そして、重い口を開いた。
「いつか――その子が真実を知る日が来るかもしれない。記録は消えない。いつか、誰かの手に渡る。そして、再生される。その時――」
香織が強い目で正臣を見た。
「その時は――私が守ります。この子を。どんなことがあっても」
彼女の目には、揺るぎない決意があった。
母親の目だった。




