第01話「防音室という名の棺」
1999年12月3日 金曜日 午後11時47分
音の無い世界は、母親の胎内によく似ていた。
重い鉄の扉を閉めた瞬間、世界は死ぬ。外の世界のありとあらゆる音――遠くを走る車の走行音、風が電線を揺らす音、隣家のテレビの笑い声――その全てが、三重構造のグラスウールと分厚い防振ゴムの壁に吸収され、絶対的な無響空間だけが残される。
自分の心臓の鼓動と、肺が空気を求める音だけが、頭蓋骨の内側でいやに大きく響いた。
柳沢美咲、十四歳。
彼女にとって、この部屋は世界の終わりであり、唯一の聖域だった。
「お母さん…」
美咲の唇が、かすかに動いた。声は、分厚い吸音材に触れる前に消えてしまう。まるで、言葉が生まれる前に殺されてしまうような、残酷な静寂。
「お母さん、怖いよ。私、まだ死にたくない」
涙が頬を伝った。熱い涙のはずなのに、この部屋の異常な空気に触れた瞬間、氷のように冷たく感じる。涙は頬を伝い、顎から落ちて、白いワンピースに小さな染みを作った。
外の気温は7度。吐く息が白く凍る、師走の夜。
しかし、この防音室の中だけは、摂氏17度、湿度78%という、まるで生物の体内のような環境に保たれている。扉を開けるたびに、その10度の温度差が、乾いた皮膚をピリピリと刺す。冷たく清浄な外気から一歩足を踏み入れると、ぬるりと生温い空気が、抵抗するように肺を満たした。
空気には、匂いがあった。
粘りつくような、複雑な匂いだ。
古くなった機械油の酸化した甘さ、長年使われた木材が湿気を吸った土のような香り、そして時折、鼻腔の奥をツンと刺激する消毒用アルコールの匂い。それらが混じり合い、発酵し、まるで熟れすぎた果実のような、甘ったるい腐敗臭となって部屋に満ちていた。
舌の上に、常に薄い金属の膜が張っているような味がした。
それは空気中に浮遊する、目に見えない磁性体の微粒子がもたらす、電気の味。9V電池の端子を、悪戯で舐めた時の記憶。あの頃は、まだ健康だった。友達と公園で遊び、学校で勉強し、将来の夢を語り合っていた。
ピアニストになりたかった。
お母さんみたいに、美しい音楽を奏でたかった。
でも、今は違う。
美咲の体重は、三十二キログラムまで落ちていた。白血病が骨髄という生命の工場を静かに蝕み、酸素を運ぶ赤血球の生産ラインを停止させていく。鏡に映る自分の顔は、日に日に青白く、まるで上質な陶器のように血の気が失せていく。
唇は、熟す前の葡萄のような薄紫色をしていた。
ただ、目だけは死んでいなかった。
死期を悟った者だけが持つ、諦観という名の静けさと、それでもなお消えない生命への執着が混じり合った、燐光のような異様な輝き。




