第17話「声の記録」
1999年12月3日 金曜日 午前1時30分
録音が開始された。
赤いRECランプが一斉に点灯する。5つの機械の赤い光が、暗い部屋の中で不気味に明滅する。それはまるで、複数の目が隆を見つめているかのようだった。
隆は震える声で、話し始めた。
「僕は――1974年、東京で生まれました。父は公務員、母はピアノ教師。一人っ子でした」
その声は最初、明らかに震えていた。恐怖、緊張、そして自分が今から何をしようとしているのかという認識。それらすべてが、声のトーンに現れている。
マイクは容赦なく、その震えを拾っていく。
NEUMANN U87の感度は極めて高い。人間の耳では聞き取れない微細な息の音、唾を飲み込む音、舌が歯に触れる音まで、すべてを記録する。
その音声信号は電気信号に変換され、5本のケーブルを通って、それぞれの記録装置へと流れ込んでいく。
VHSテープの磁性体に。 カセットテープの酸化鉄粒子に。 MDの光学記録層に。 フロッピーディスクの磁性体に。 8mmフィルムの銀粒子に。
隆の声が、物質として固定されていく。
「小学校の頃――僕は音楽が好きでした。でも、ピアノは弾けなかった。母に習ったけど、すぐにやめてしまった。才能がなかったんです」
時間が経つにつれ、隆の声は徐々に安定してきた。最初の震えは消え、トーンは一定になり、リズムも規則正しくなっていく。
そして――不思議なことが起こり始めた。
正臣がモニターを見つめる。周波数解析のグラフが、リアルタイムで表示されている。
隆の声の基本周波数は、約120Hz。成人男性としては標準的だ。
だが、その倍音構成が異常だった。
146Hz、219Hz、292Hz、365Hz――
すべて、73の整数倍。
まるで隆の声帯が、無意識のうちに73Hzの倍音を強調するように調整されているかのようだ。人間の声帯は筋肉の塊だ。意識的に制御できる部分もあるが、多くは反射的に動く。だが今、隆の声帯は、まるでプログラムされた楽器のように、73Hzに同調していく。
「中学の時――初めて恋をしました。同じクラスの女の子。名前は――」
隆が一瞬躊躇した。その沈黙の間、NEUMANNマイクは彼の呼吸音を拾っている。浅く、速い呼吸。心拍数が上がっている証拠だ。
「真由美」
その名前を口にした瞬間、モニターの数値が変化した。
心拍数:68回/分 → 73回/分
正臣の目が鋭くなる。完璧だ。感情の高まりとともに、心拍数が73に収束していく。
「彼女は――僕のことを知らなかった。話しかける勇気もなかった。卒業まで、ただ見ているだけでした」
隆の声には、25年前の記憶が蘇った時の切なさが滲んでいた。初恋の痛み。臆病さ。後悔。それらすべてが、音声信号として記録されていく。
記録装置たちは、感情を理解しない。ただ、音の波形を忠実に複製するだけだ。だが、その忠実さこそが、残酷だった。人間の記憶は曖昧で、時間とともに美化される。だが、記録は違う。記録は、その瞬間の生々しい感情を、永遠に保存する。
時間が過ぎていく。
10分、20分、30分。
隆は止まらない。次々と、自分の人生を語っていく。
高校時代の音楽理論との出会い。大学での音響工学の学び。そして――柳沢正臣との運命的な出会い。
「先生の理論を初めて聞いた時――僕は衝撃を受けました。意識を記録できる。人間の魂を音として残せる。それは――永遠への扉でした」
正臣はコントロールルームのガラス越しに、隆を見つめていた。
モニターには、すべてのバイタルサインが表示されている。
体温:36.8度 心拍数:73回/分 血圧:118/76 mmHg 脳波:73Hzの持続波が徐々に強くなっている
完璧だ。
隆は自ら、73Hzの存在になりつつある。




