第16話「もう一人の被験者」
1999年12月3日 金曜日 午前1時15分
美咲の実験が終了してから、わずか2分後。
正臣は防音室の隣にある、もう一つの実験室へと向かった。廊下を数歩歩くだけだが、その距離が妙に長く感じられた。娘を記録装置の中に閉じ込めたばかりの男の足取りは、重く、不安定だった。
扉を開ける。
そこには、別の被験者が待っていた。
佐々木隆、25歳。正臣の研究助手の一人。音響工学を専攻する大学院生。痩せ型の体格、黒縁眼鏡、やや長めの黒髪。神経質そうな顔立ちだが、その目には強い意志の光があった。
彼は自ら志願して、この実験の被験者になった。
「柳沢先生」
隆が椅子から立ち上がった。その動きは機敏だったが、手が微かに震えている。白い実験室の蛍光灯が、その震えを容赦なく照らし出していた。
「美咲さんは――どうでしたか」
正臣は無表情のまま答えた。
「成功した。完璧な記録だった。心拍数73。すべてが予測通りだった」
隆の顔が緊張に強張った。喉仏が上下する。唾を飲み込んだのだろう。
「そうですか…では――次は、私ですね」
正臣は黙って頷き、隆を中央の椅子へと導いた。
この部屋も美咲の防音室と同じ構造をしている。三重構造のグラスウール、分厚い防振ゴム、絶対的な無響空間。壁は音を殺し、時間の感覚すら歪める。
だが――この部屋にはグランドピアノがない。
代わりに、部屋の中央、隆の座る椅子の前に設置されているのは――
マイク、一本。
NEUMANN U87。ドイツ製の高性能コンデンサーマイク。スタジオ録音用の最高級品だ。円筒形の銀色のボディが、まるで銃口のように隆の口元に向けられている。
空気には、美咲の部屋と同じ匂いがあった。機械油の酸化した甘さ、古い木材の湿った土臭さ、そして消毒用アルコールのツンとした刺激臭。それらが混じり合い、この密閉空間に充満している。
室温は摂氏17度。湿度78%。
隆が深呼吸をした。その息が、微かに震えている。
「佐々木くん」
正臣が静かに言った。
「君には、話してもらう」
「何を?」
「すべてだ。君の人生を。生まれてから今まで、すべてを声に出して。そして――それを記録する」
隆は再び深呼吸をした。胸郭が大きく広がり、縮む。肺を満たす生温い空気。それは体温に近く、まるで誰かの息を吸い込んでいるかのような不快な感触だった。
「分かりました。でも――どれくらい話せば?」
「73分」
正臣が即答した。
「正確に73分。それが君の記録時間だ」
73。その数字が、再び現れた。美咲の心拍数と同じ。この実験のすべてを支配する、呪われた数字。
隆の頭部に、美咲と同じ電極が装着されていく。
7つの電極。前頭葉に2つ、側頭葉に2つ、頭頂葉に2つ、後頭葉に1つ。銀色の電極が、隆の黒髪の間に冷たく光る。
そこから伸びるケーブルは、まるで神経系の延長のように、壁際の記録装置へと繋がっていく。
VHSデッキ。カセットデッキ。MDレコーダー。フロッピードライブ。8mmカメラ。
そして――部屋の隅に鎮座する、黒い直方体。
『ムネモシュネ』の箱。
その表面のLEDが、再び明滅し始めた。赤い光が、不規則なリズムで点滅する。まるで、何かが目覚めようとしているかのように。
正臣がコントロールルームに移動し、スイッチを入れていく。
一つ、また一つと、機械たちが息を吹き返す。
VHSデッキの「ブゥゥン」という唸り。 カセットデッキの「カチャカチャ」という金属音。 MDレコーダーの「ピッ」という電子音。 フロッピードライブの「ガリガリ」という駆動音。 8mmカメラのゼンマイの「ジジジ」という巻き上げ音。
すべてが、再び起動した。




