第15話「フリマアプリへ、最初の出品」
2024年11月1日 金曜日 午後8時23分
25年の時が流れた。
1999年から2024年へ。四半世紀。
世界は、根本から変わっていた。
1999年、記録メディアはすべて物理的だった。
VHSテープ、カセットテープ、MD、フロッピーディスク、8mmフィルム。それらは手で触れることができ、重さがあり、場所を取り、劣化した。
音楽を聴くには、CDプレイヤーにディスクを入れる必要があった。 映画を見るには、レンタルビデオ店に行く必要があった。 写真を撮るには、フィルムを現像に出す必要があった。
だが、2024年。
すべてがクラウドに保存される。Spotify、Netflix、Google Photos。物理的なメディアは、もはや必要ない。
スマートフォン一台で、何千曲もの音楽、何百本もの映画、何万枚もの写真にアクセスできる。
VHSテープは、骨董品になった。 カセットテープは、懐かしの品になった。 MDは、誰も覚えていない。 フロッピーディスクは、博物館に展示される。
アナログは、死んだ。
だが――古いものを愛する人々は、まだ存在する。
レトロメディア愛好家。
彼らはフリマアプリで、古いカセットテープやVHSテープを探している。音質がどうとか、画質がどうとかではない。物理的に触れられる記録媒体に、ロマンを感じているのだ。
デジタルは完璧すぎる。劣化しない、コピーが簡単、永遠に保存できる。
だが、だからこそ――価値がない。
アナログには、温もりがある。ノイズがある。傷がある。そして、時間とともに劣化していく儚さがある。
それが、愛おしい。
2024年11月1日。
フリマアプリ『レトロマーケット』に、新しいユーザーが登録された。
ユーザー名:marie_1985 プロフィール写真:なし 自己紹介文:「古い記録メディアを扱っています。丁寧な梱包を心がけます」 登録日:2024年11月1日 午後8時00分
午後8時23分、最初の商品が出品された。
商品名:【激レア】1999年製VHSテープ 特別な記録 説明文: 「1999年に録画された、大変貴重なVHSテープです。ラベルには『呪い』と手書きされています。どなたが、何を録画したものかは不明ですが、レトロメディアコレクターの方にはたまらない一品かと思います。テープの状態は良好です。再生確認はしておりません(再生機器を所有していないため)。ノークレーム・ノーリターンでお願いします」
価格:500円(送料込み) 発送方法:普通郵便 商品の状態:やや傷や汚れあり
添付された写真には――
黒いVHSテープ。 年季の入ったプラスチックケース。 そして、白いラベルに黒いマジックで書かれた、震える文字。
「呪い」
その文字は、26年前のあの夜、正臣が震える手で書いたものだった。
商品ページのURLは、こうだ。
https://retromarket.jp/items/437891
たった6桁の数字。
だが、この数字が、一人の女子大生の運命を変えることになる。
出品から3時間後。
午後11時47分。
東京、世田谷区。築30年のワンルームアパート、3階の一室。
一人の女子大生が、ベッドの上でスマートフォンを見ていた。
佐々木凛。20歳。東京心理学大学、心理学部、2年生。
身長158センチ、体重49キログラム。黒髪ロング。眼鏡をかけている。地味で、目立たず、友達の少ない、孤独な大学生。
彼女は今、フリマアプリ『レトロマーケット』で、VHSテープを探していた。
なぜか?
理由は単純だ。卒業論文のテーマが「アナログメディアと記憶の関係性」だから。実際にVHSテープを入手し、それを再生し、どのような感情が喚起されるかを研究する予定だった。
画面をスクロールしていると――ある商品が目に留まった。
『【激レア】1999年製VHSテープ 特別な記録』
500円。
安い。そして、ラベルに「呪い」と書かれているのが興味深い。
凛は商品説明を読んだ。
「レトロメディアコレクターの方にはたまらない一品」
凛は、コレクターではない。研究者だ。だが――これは面白い資料になるかもしれない。
彼女の指が、「購入する」ボタンに触れた。
一瞬の躊躇。
でも――たった500円だ。失敗しても、痛くない。
タップ。
画面が遷移する。
「注文を確定しますか?」
もう一度、タップ。
「注文が確定しました。出品者に発送を依頼しました」
その瞬間――
26年前の記録が、再び動き始めた。
美咲の意識が、蘇り始めた。
73Hzの周波数が、時空を超えて伝播し始めた。
地下保管庫の『ムネモシュネ』の箱が、突然、鼓動のリズムを変えた。
146回/分から――
219回/分へ。
三つの心臓が、鼓動している。
真理子、美咲、そして――
凛。
まだ見ぬ、三人目の犠牲者。
凛はスマートフォンを置き、ベッドに横になった。
窓の外では、東京の夜景が輝いている。無数の光。無数の人々。無数の人生。
でも、凛は孤独だった。
友達もいない、恋人もいない、家族とも疎遠。
大学では成績優秀だが、誰とも深い関係を築けない。
ただ、一人で研究に没頭する日々。
「…VHSテープか。懐かしいな」
凛が呟いた。
彼女は1999年生まれではない。2004年生まれ。だから、VHSの全盛期を知らない。子供の頃には、すでにDVDが主流だった。
でも――祖父の家に、古いVHSテープがたくさんあった記憶がある。
押し入れの奥、段ボール箱の中。埃をかぶった、黒いテープたち。
あれは、何が録画されていたのだろう?
家族の記録? 旅行の映像? それとも――
凛は目を閉じた。
明日、テープが届くだろう。
そして、大学の視聴覚室にある古いVHSデッキで、再生する。
何が記録されているのか――
とても、楽しみだった。
だが、凛は知らない。
そのテープに記録されているのは、ただの映像ではないことを。
73Hzの周波数が、彼女の意識を侵食し、上書きし、そして――
個を、消失させることを。
物語は、本当に始まる。
呪いのビデオテープが、新しい犠牲者の手に渡る瞬間。
1999年12月3日から、2024年11月へ。
26年の時を超えて、美咲の記録が蘇る。
そして――
凛の、長い戦いが始まる。




