第14話「大学への報告」
1999年12月10日 金曜日 午後2時
大学の研究棟は、いつもと変わらぬ喧騒に包まれていた。
学生たちが廊下を歩き、談笑し、講義室に消えていく。実験器具の音、コンピュータのファンの音、誰かの笑い声。すべてが日常。まるで、何も起こらなかったかのように。
正臣は主任教授の研究室のドアをノックした。
「どうぞ」
中から、低い声が聞こえた。
教授室に入ると、窓際の机で田中教授が書類を整理していた。60代後半、白髪交じりの髪、丸い眼鏡。彼は正臣の研究の監督者であり、5年間の研究資金を承認した人物でもある。
「柳沢君、座りたまえ」
正臣は促されるまま、硬い木製の椅子に座った。
そして、一冊のファイルを机の上に置いた。
表紙には、こう書かれている。
『PROJECT MNEMOSYNE - 最終報告書』
田中教授がファイルを手に取り、ページをめくり始める。その表情が、徐々に曇っていく。
ファイルの中身は――ほとんど空白だった。
序文、1ページ。 実験概要、2ページ。 結論、1ページ。
合計4ページ。
5年間、総額3000万円の研究費を使った研究の報告書が、たったの4ページ。
しかも、具体的なデータは何もない。実験方法の詳細もない。結果の分析もない。
結論の部分には、こう書かれているだけだ。
「実験は失敗に終わった。意識の記録は、現在の技術では不可能であることが判明。研究を中止する」
田中教授が眉をひそめた。
「柳沢君」
その声には、明らかな不満が含まれていた。
「これでは、何も分からないじゃないか。5年間の研究成果が――たったこれだけ?」
正臣は無表情で答えた。
「はい。失敗したものを、詳細に報告する意味はありません」
「しかし、失敗からも学べることはあるはずだ。なぜ失敗したのか、どこに問題があったのか、今後の研究者のために――」
「研究は終わりです」
正臣の声が、教授の言葉を遮った。
「娘も、亡くなりました。もう――この研究を続ける気はありません」
部屋に、重い沈黙が落ちた。
田中教授は深くため息をついた。彼も、正臣の娘の死を知っている。葬儀にも参列した。そして、正臣がどれほど娘を愛していたかも知っている。
「…分かった」
教授が静かに言った。
「君の気持ちは、理解できる。しばらく、休んだらどうだ? 研究室は君の席を残しておく」
正臣は立ち上がった。
「そうさせていただきます」
彼は一礼し、教授室を出た。
そして――二度と、戻ってこなかった。
1999年12月31日 金曜日
大晦日。
世界は新しいミレニアムを迎えようとしていた。Y2K問題で世間は大騒ぎ。コンピュータが誤作動するかもしれない、飛行機が落ちるかもしれない、銀行のシステムが崩壊するかもしれない。
だが、そのすべては杞憂に終わった。
午前0時、2000年1月1日を迎えても、何も起こらなかった。世界は平和に、新しい世紀を迎えた。
その日、正臣は大学に辞職願を提出した。
そして――姿を消した。
研究室の同僚も、親族も、誰も彼の行方を知らない。
ただ――地下保管庫には、今も『ムネモシュネ』の箱が鼓動している。
ドクン…ドクン…ドクン…
146回/分。
真理子と美咲の、永遠の鼓動。
電源は供給され続け、環境制御システムは正常に稼働し、磁気ドラムは回り続ける。
10年後、20年後、そして――誰かがこの箱を発見するその日まで。




