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ムネモシュネの箱 ― 73Hzの永遠 ―  作者: 大西さん
プロローグ「記録された夜」
15/43

第14話「大学への報告」

1999年12月10日 金曜日 午後2時


大学の研究棟は、いつもと変わらぬ喧騒に包まれていた。


学生たちが廊下を歩き、談笑し、講義室に消えていく。実験器具の音、コンピュータのファンの音、誰かの笑い声。すべてが日常。まるで、何も起こらなかったかのように。


正臣は主任教授の研究室のドアをノックした。


「どうぞ」


中から、低い声が聞こえた。


教授室に入ると、窓際の机で田中教授が書類を整理していた。60代後半、白髪交じりの髪、丸い眼鏡。彼は正臣の研究の監督者であり、5年間の研究資金を承認した人物でもある。


「柳沢君、座りたまえ」


正臣は促されるまま、硬い木製の椅子に座った。


そして、一冊のファイルを机の上に置いた。


表紙には、こう書かれている。


『PROJECT MNEMOSYNE - 最終報告書』


田中教授がファイルを手に取り、ページをめくり始める。その表情が、徐々に曇っていく。


ファイルの中身は――ほとんど空白だった。


序文、1ページ。 実験概要、2ページ。 結論、1ページ。


合計4ページ。


5年間、総額3000万円の研究費を使った研究の報告書が、たったの4ページ。


しかも、具体的なデータは何もない。実験方法の詳細もない。結果の分析もない。


結論の部分には、こう書かれているだけだ。


「実験は失敗に終わった。意識の記録は、現在の技術では不可能であることが判明。研究を中止する」


田中教授が眉をひそめた。


「柳沢君」


その声には、明らかな不満が含まれていた。


「これでは、何も分からないじゃないか。5年間の研究成果が――たったこれだけ?」


正臣は無表情で答えた。


「はい。失敗したものを、詳細に報告する意味はありません」


「しかし、失敗からも学べることはあるはずだ。なぜ失敗したのか、どこに問題があったのか、今後の研究者のために――」


「研究は終わりです」


正臣の声が、教授の言葉を遮った。


「娘も、亡くなりました。もう――この研究を続ける気はありません」


部屋に、重い沈黙が落ちた。


田中教授は深くため息をついた。彼も、正臣の娘の死を知っている。葬儀にも参列した。そして、正臣がどれほど娘を愛していたかも知っている。


「…分かった」


教授が静かに言った。


「君の気持ちは、理解できる。しばらく、休んだらどうだ? 研究室は君の席を残しておく」


正臣は立ち上がった。


「そうさせていただきます」


彼は一礼し、教授室を出た。


そして――二度と、戻ってこなかった。


1999年12月31日 金曜日


大晦日。


世界は新しいミレニアムを迎えようとしていた。Y2K問題で世間は大騒ぎ。コンピュータが誤作動するかもしれない、飛行機が落ちるかもしれない、銀行のシステムが崩壊するかもしれない。


だが、そのすべては杞憂に終わった。


午前0時、2000年1月1日を迎えても、何も起こらなかった。世界は平和に、新しい世紀を迎えた。


その日、正臣は大学に辞職願を提出した。


そして――姿を消した。


研究室の同僚も、親族も、誰も彼の行方を知らない。


ただ――地下保管庫には、今も『ムネモシュネ』の箱が鼓動している。


ドクン…ドクン…ドクン…


146回/分。


真理子と美咲の、永遠の鼓動。


電源は供給され続け、環境制御システムは正常に稼働し、磁気ドラムは回り続ける。


10年後、20年後、そして――誰かがこの箱を発見するその日まで。

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