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ムネモシュネの箱 ― 73Hzの永遠 ―  作者: 大西さん
プロローグ「記録された夜」
13/43

第12話「消された記録、残された痕跡」

1999年12月5日 日曜日 午前3時27分


地下へ続く階段は、闇に沈んでいた。


正臣は『ムネモシュネ』の箱を抱え、一段ずつ慎重に降りていく。箱の重量は50キログラム以上。中には精密な電子回路、回転する磁気ドラム、そして――二つの「意識」が詰まっている。


階段は全部で32段。コンクリートの冷たさが、薄い靴底を通して足裏に伝わってくる。一段降りるごとに、温度が0.3度ずつ下がっていく。地上が摂氏7度なら、地下保管庫は約マイナス3度。凍えるような寒さだ。


吐く息が白く凍る。その白い息が、暗闇の中で幽霊のように漂い、消えていく。


地下保管庫の扉は、分厚い鉄製だった。おそらく10センチはある。核シェルター用の廃棄品を、正臣が研究室に持ち込んだものだ。錆びた赤茶色の表面には、無数の傷跡が刻まれている。


重い扉を開ける。油切れのヒンジが「ギィィィ」と悲鳴のような音を立てた。


扉の向こうから、カビと湿気の匂いが一気に押し寄せてくる。それは地下水が染み出した壁から発する、土と腐敗の混ざった原始的な悪臭だった。鼻腔の奥が痛む。喉の奥に、苦い味が広がる。


温度計は摂氏12度を示している。湿度計は85%。


記録メディアを保管するには最悪の環境だ。高温多湿は、磁気テープを劣化させ、フィルムを腐食させ、フロッピーディスクを使い物にならなくする。


だが、『ムネモシュネ』は違う。


この箱は自己完結型の環境制御システムを持っている。内部には小型のペルチェ素子とヒートポンプが組み込まれ、常に最適な温度と湿度を維持する。まるで生命維持装置のように。


内部温度:摂氏37.3度 内部湿度:55%


それは、人間の体内環境そのものだ。


正臣は箱を部屋の最奥に置いた。床に置く瞬間、「ドン」という重い音が響き、埃が舞い上がった。20年は掃除されていない部屋だ。


壁際にあるコンセントに、電源ケーブルを差し込む。


箱が、再び鼓動を始めた。


ドクン…ドクン…ドクン…


146回/分。


LEDの赤い光が、暗闇の中で明滅する。まるで、この箱が呼吸しているかのように。


「ここで、眠っていてくれ」


正臣が囁いた。その声は湿った空気に吸収され、すぐに消える。


「いつか――お前たちを、完全な形で――蘇らせる日まで」


彼は保管庫を出て、重い鉄の扉を閉めた。


ガチャン。


その音は、棺の蓋が閉まる音に似ていた。


鍵をかける。二重ロック。この部屋には正臣以外、誰も入れない。


研究室に戻った正臣は、実験記録の整理を始めた。


「実験73号」のファイル。


そこには美咲の全てが記録されている。出生から死亡まで。身長、体重、血液型、遺伝子情報。白血病の進行データ。投薬記録。そして、最後の実験における、すべての生体データ。


体温:37.2度(実験開始時)→ 39.8度(最高時)→ 35.1度(心停止時) 心拍数:73回/分(安静時)→ 168回/分(最高時)→ 0回/分(午前0時13分) 血圧:98/62 mmHg → 測定不能 脳波:正常なα波 → 異常な73Hzの持続波 → 平坦


グラフ、写真、メモ。全てが、美咲という一人の少女の生と死を、科学的に記述していた。


最後のページには、正臣の直筆でこう書かれている。


「1999年12月3日 午前0時13分 心停止確認。実験は成功。意識の記録、完了」


正臣は――そのページを破り捨てた。


ビリビリと紙が裂ける音が、静かな研究室に響く。


そして、ファイル全体をシュレッダーにかけた。


ジジジジジジジ――


業務用の大型シュレッダーが、容赦なく紙を吸い込んでいく。5年間の研究記録が、1ミリ幅の紙片に変わっていく。


美咲の記録が、物理的に消されていく。


だが――本当の記録は、五つのメディアの中にある。そして、『ムネモシュネ』の中にある。


消すことは、できない。


実験装置の解体。


VHSデッキ、カセットデッキ、MDレコーダー。すべてを元の場所に戻す。まるで、最初から実験などなかったかのように。


ケーブルを外す。コネクタが「スポッ」と抜ける音。


機器を棚に戻す。金属が金属に触れる「カチャン」という音。


防音室は、再びただの音楽練習室に戻った。


グランドピアノだけが、部屋の中央に静かに佇んでいる。美咲の指紋が刻まれた鍵盤とともに。


正臣は最後に、防音室の扉を閉めた。


そして、鍵をかけた。


もう誰も、ここには入らない。少なくとも――しばらくは。


窓の外では、夜明けが近づいていた。東の空が、わずかに白み始めている。


新しい一日が始まろうとしている。


だが、正臣にとって、時間はあの瞬間――午前0時13分で止まっていた。

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