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ムネモシュネの箱 ― 73Hzの永遠 ―  作者: 大西さん
第六章「ムネモシュネの破壊」
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第121話「平和な朝」

午後9時。渋谷駅に到着した。


駅前は大混乱だった。救急車が何台も止まっている。警察官が人々を誘導している。


そして白い服を着た人々がぼんやりと立っている。表情は困惑。


「ここどこ?」「私なぜここに?」「家に帰りたい……」


みんな記憶を失っている。なぜ渋谷にいるのか。なぜ白い服を着ているのか。なぜ記録メディアを持っているのか。すべてを忘れている。


凛はその光景を見つめた。これで良かったのか。記録は消えた。73Hzも止まった。でも記憶も消えた。人々の記憶が。


「凛」美波が声をかけた。「大丈夫?」


「うん……」凛が答えた。「ただ、これで本当に良かったのかなって……」


美波は凛の気持ちを理解した。「分かる。でも記録されたままよりずっといい。記憶はまた作れる。でも個を失ったら二度と戻らない。だからこれで良かったんだよ」


凛はそれを聞いて少し楽になった。そうだ。記憶はまた作れる。でも個は戻らない。だからこれで良かった。


「お腹空いた?」香織が聞いた。


「うん……」凛が答えた。「そういえば今日何も食べてない……」


「じゃあ」香織が微笑んだ。「何か食べましょう。三人でお祝いに」


三人は近くのレストランに入った。窓際の席に座る。外の混沌が見える。でもここは静か。落ち着いている。


料理を注文する。パスタ、サラダ、スープ。そしてシャンパン。


「乾杯しましょう」香織がグラスを上げた。「新しい世界に。記録のない世界に」


「乾杯」


三人はグラスを合わせた。カチンという音。そして飲んだ。


美味しい。シャンパンの泡。食事も美味しい。久しぶりに心から味わえる。記録の影響がないから。73Hzの圧迫がないから。


「凛」香織が言った。「これからどうする?」


「どうするって?」


「大学院、続ける?」


凛は少し考えて答えた。「続ける。研究好きだから。心理学、記憶と意識の研究。もっと深く学びたい。そして柳沢正臣の研究もちゃんと検証したい。何が間違っていたのか。何が正しかったのか」


香織が優しく微笑んだ。「そうね。それがいいわ。お父さんもきっと喜ぶ」


食事が終わった。午後11時。三人はそれぞれの家に帰った。凛と美波は凛の部屋へ。香織は自分の家へ。


「また明日」「うん、また明日」


凛の部屋。ドアを開ける。いつもの部屋。でも何かが違う。空気が軽い。圧迫感がない。73Hzのうなりもない。


「ただいま……」凛が呟いた。


部屋の中には5つのメディアがまだ並んでいた。VHSテープ、カセットテープ、MD、フロッピーディスク、8mmフィルム。そして各再生機器。


すべて止まっている。もう動かない。記録は消えた。ムネモシュネが破壊されたから。


これらはもうただのメディア。ただの物。


「これ」美波が言った。「どうする?」


凛はしばらく考えて答えた。「保存しておく。証拠として。そして記録として。何が起きたのか、忘れないために」


美波は頷いた。「そうだね」


二人はメディアを一つずつ箱にしまった。丁寧に。これらは恐怖の源だった。でも同時に父の愛の証でもあった。


すべてをしまい終えた。


「お風呂入る?」凛が聞いた。


「うん」美波が答えた。「汗かいたし」


二人は順番にシャワーを浴びた。そして部屋着に着替える。ベッドに横になる。


「疲れた……」美波が呟いた。


「うん……」凛も答えた。「でも終わった……本当に終わった……」


二人はしばらく天井を見つめていた。


そして凛が言った。「美波」


「ん?」


「ありがとう。あなたがいなかったら、私、どうなってたか……」


美波が凛の方を向いた。「私も。凛と出会えて良かった。美月を失ってからずっと一人だった。でも凛がいてくれた。だから頑張れた」


二人は手を繋いだ。友情の証。そしてこの戦いを共に戦った絆。


「おやすみ、凛」


「おやすみ、美波」


部屋の明かりを消す。暗闇。でももう怖くない。73Hzのうなりもない。記録の声もない。


ただ静寂。心地よい静寂。


凛はすぐに眠りに落ちた。深い眠り。夢も見なかった。


12月11日 木曜日 午前8時。


凛は目が覚めた。久しぶりにぐっすり眠れた。悪夢も見なかった。幻聴もなかった。ただ深い眠り。


窓を開ける。冷たい空気が部屋に流れ込んでくる。12月の朝。空は晴れている。青い空。白い雲。美しい。


凛は深呼吸をした。生きている実感。


そして心拍数を測ってみる。


ドクン…ドクン…ドクン…


15秒で17回。1分で68回。


「68……」凛が微笑んだ。「正常……もう73じゃない……」


美波が起きてきた。「おはよう凛」


「おはよう」


「よく眠れた?」


「うん」美波が伸びをした。「久しぶりにぐっすり眠れた」


二人は朝食を作った。卵、トースト、コーヒー。いつもの朝食。でも今日は特別。記録から解放された最初の朝。新しい人生の始まり。


「美味しい……」凛が言った。「卵美味しい……」


味覚が完全に戻っている。塩の味。バターの香り。すべてが鮮明に感じられる。


「ニュース見てみる?」美波がスマートフォンを取り出した。画面を見る。


「続報:記録メディア現象、収束へ


昨夜一斉に倒れた人々はほぼ全員が意識を回復。ただし多くが記憶喪失を訴えている。専門家は『一時的な症状』と見ており、時間とともに回復する見込み。警察は原因究明を進めている」


「白い服の謎


倒れていた人々は全員が白い服を着用していた。また様々な記録メディア(VHS、カセットテープなど)を所持。これらのメディアには何も記録されていなかったとのこと」


凛と美波は顔を見合わせて微笑んだ。


記録は完全に消去された。ムネモシュネの破壊は成功した。


これですべてが終わった。


本当に。

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