第121話「平和な朝」
午後9時。渋谷駅に到着した。
駅前は大混乱だった。救急車が何台も止まっている。警察官が人々を誘導している。
そして白い服を着た人々がぼんやりと立っている。表情は困惑。
「ここどこ?」「私なぜここに?」「家に帰りたい……」
みんな記憶を失っている。なぜ渋谷にいるのか。なぜ白い服を着ているのか。なぜ記録メディアを持っているのか。すべてを忘れている。
凛はその光景を見つめた。これで良かったのか。記録は消えた。73Hzも止まった。でも記憶も消えた。人々の記憶が。
「凛」美波が声をかけた。「大丈夫?」
「うん……」凛が答えた。「ただ、これで本当に良かったのかなって……」
美波は凛の気持ちを理解した。「分かる。でも記録されたままよりずっといい。記憶はまた作れる。でも個を失ったら二度と戻らない。だからこれで良かったんだよ」
凛はそれを聞いて少し楽になった。そうだ。記憶はまた作れる。でも個は戻らない。だからこれで良かった。
「お腹空いた?」香織が聞いた。
「うん……」凛が答えた。「そういえば今日何も食べてない……」
「じゃあ」香織が微笑んだ。「何か食べましょう。三人でお祝いに」
三人は近くのレストランに入った。窓際の席に座る。外の混沌が見える。でもここは静か。落ち着いている。
料理を注文する。パスタ、サラダ、スープ。そしてシャンパン。
「乾杯しましょう」香織がグラスを上げた。「新しい世界に。記録のない世界に」
「乾杯」
三人はグラスを合わせた。カチンという音。そして飲んだ。
美味しい。シャンパンの泡。食事も美味しい。久しぶりに心から味わえる。記録の影響がないから。73Hzの圧迫がないから。
「凛」香織が言った。「これからどうする?」
「どうするって?」
「大学院、続ける?」
凛は少し考えて答えた。「続ける。研究好きだから。心理学、記憶と意識の研究。もっと深く学びたい。そして柳沢正臣の研究もちゃんと検証したい。何が間違っていたのか。何が正しかったのか」
香織が優しく微笑んだ。「そうね。それがいいわ。お父さんもきっと喜ぶ」
食事が終わった。午後11時。三人はそれぞれの家に帰った。凛と美波は凛の部屋へ。香織は自分の家へ。
「また明日」「うん、また明日」
凛の部屋。ドアを開ける。いつもの部屋。でも何かが違う。空気が軽い。圧迫感がない。73Hzのうなりもない。
「ただいま……」凛が呟いた。
部屋の中には5つのメディアがまだ並んでいた。VHSテープ、カセットテープ、MD、フロッピーディスク、8mmフィルム。そして各再生機器。
すべて止まっている。もう動かない。記録は消えた。ムネモシュネが破壊されたから。
これらはもうただのメディア。ただの物。
「これ」美波が言った。「どうする?」
凛はしばらく考えて答えた。「保存しておく。証拠として。そして記録として。何が起きたのか、忘れないために」
美波は頷いた。「そうだね」
二人はメディアを一つずつ箱にしまった。丁寧に。これらは恐怖の源だった。でも同時に父の愛の証でもあった。
すべてをしまい終えた。
「お風呂入る?」凛が聞いた。
「うん」美波が答えた。「汗かいたし」
二人は順番にシャワーを浴びた。そして部屋着に着替える。ベッドに横になる。
「疲れた……」美波が呟いた。
「うん……」凛も答えた。「でも終わった……本当に終わった……」
二人はしばらく天井を見つめていた。
そして凛が言った。「美波」
「ん?」
「ありがとう。あなたがいなかったら、私、どうなってたか……」
美波が凛の方を向いた。「私も。凛と出会えて良かった。美月を失ってからずっと一人だった。でも凛がいてくれた。だから頑張れた」
二人は手を繋いだ。友情の証。そしてこの戦いを共に戦った絆。
「おやすみ、凛」
「おやすみ、美波」
部屋の明かりを消す。暗闇。でももう怖くない。73Hzのうなりもない。記録の声もない。
ただ静寂。心地よい静寂。
凛はすぐに眠りに落ちた。深い眠り。夢も見なかった。
12月11日 木曜日 午前8時。
凛は目が覚めた。久しぶりにぐっすり眠れた。悪夢も見なかった。幻聴もなかった。ただ深い眠り。
窓を開ける。冷たい空気が部屋に流れ込んでくる。12月の朝。空は晴れている。青い空。白い雲。美しい。
凛は深呼吸をした。生きている実感。
そして心拍数を測ってみる。
ドクン…ドクン…ドクン…
15秒で17回。1分で68回。
「68……」凛が微笑んだ。「正常……もう73じゃない……」
美波が起きてきた。「おはよう凛」
「おはよう」
「よく眠れた?」
「うん」美波が伸びをした。「久しぶりにぐっすり眠れた」
二人は朝食を作った。卵、トースト、コーヒー。いつもの朝食。でも今日は特別。記録から解放された最初の朝。新しい人生の始まり。
「美味しい……」凛が言った。「卵美味しい……」
味覚が完全に戻っている。塩の味。バターの香り。すべてが鮮明に感じられる。
「ニュース見てみる?」美波がスマートフォンを取り出した。画面を見る。
「続報:記録メディア現象、収束へ
昨夜一斉に倒れた人々はほぼ全員が意識を回復。ただし多くが記憶喪失を訴えている。専門家は『一時的な症状』と見ており、時間とともに回復する見込み。警察は原因究明を進めている」
「白い服の謎
倒れていた人々は全員が白い服を着用していた。また様々な記録メディア(VHS、カセットテープなど)を所持。これらのメディアには何も記録されていなかったとのこと」
凛と美波は顔を見合わせて微笑んだ。
記録は完全に消去された。ムネモシュネの破壊は成功した。
これですべてが終わった。
本当に。




