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ムネモシュネの箱 ― 73Hzの永遠 ―  作者: 大西さん
プロローグ「記録された夜」
12/41

第11話「26年後へ続く記録」

1999年12月3日 金曜日 午前1時15分


正臣は五つのメディアを、それぞれの専用ケースに収めていった。その手つきは、まるで聖遺物を扱う司祭のように慎重で、そして不気味なほど愛情に満ちていた。


VHSテープは黒いプラスチックケースに。ケースの蓋を閉める瞬間、「パチン」という乾いた音が防音室に響いた。そのテープの中には、美咲の最後の演奏と、73Hzに変調された意識の断片が、磁性体の粒子として刻み込まれている。


カセットテープは透明なケースに。ケースを通して見える茶色いテープが、微かに光を反射する。その表面には、美咲の声、呼吸、そして心臓の鼓動が、アナログ信号として保存されていた。


MDは専用のプラスチックケースに。デジタル記録された美咲の思考パターンが、光学的に読み取り可能な形で、直径64ミリの円盤に閉じ込められている。


フロッピーディスクは紙製のスリーブに。1.44MBという、今となっては笑ってしまうほど小さな容量の中に、美咲の脳波データが高密度で圧縮されて記録されていた。


8mmフィルムは金属製のリールケースに。銀色の金属が、蛍光灯の光を冷たく反射する。セルロイドに焼き付けられた美咲の姿は、化学反応によって永遠に固定されている。


そして――


「呪い」とラベルの貼られた、あのVHSテープだけは特別だった。


正臣はそれを、研究室の奥から持ってきた古い段ボール箱の底に、丁寧に、しかし確実に隠した。その箱には「実験資材・廃棄予定」というラベルが貼られている。誰も開けない箱。誰も触らない箱。


この一本だけが、いつか外の世界に出ていく運命にある。


正臣の手が震えた。


彼は知っていた。このテープに記録された内容が、どれほど危険なものか。73Hzの信号が、人間の意識にどのような影響を与えるか。見た者の脳に、美咲の記録が転写され、上書きされ、そして――個が侵食される。


だが、それでも彼は隠した。


なぜなら、これこそが美咲を永遠にする唯一の方法だから。


誰かがこのテープを再生するたびに、美咲は蘇る。何度でも。何度でも。デジタルコピーのように完璧に。そして、見た者の中で生き続ける。


それは呪いか、救済か。


正臣自身にも、もう分からなかった。


記録装置たちの電源を落とし始める。


VHSデッキのトランスが発する「ブゥゥン」という50Hzの唸りが、徐々に音程を下げながら消えていく。まるで、巨大な生き物が最期の息を吐き出すかのように。


カセットデッキのヘッドブロックが最終位置に戻る「カチャカチャ」という金属音。それは時計の秒針が止まる音に似ていた。時間の終わり。記録の終わり。


MDレコーダーのレーザーピックアップが消える瞬間、「ピッ」という短い電子音が最後の挨拶のように鳴った。デジタルの死。一と零の世界からの、別れの合図。


フロッピードライブの磁気ヘッドがトラック00に戻る「ガリガリ」という粗野な音も静まった。


8mmカメラのゼンマイが、まるで心臓が止まるように、ゆっくりと、ゆっくりと、最後の回転を終えて静止した。


部屋が静寂に包まれていく。


だが、完全な静寂ではない。


まだ一つだけ、動いている機械がある。


『ムネモシュネ』の箱。


その内部で、磁気ドラムが回り続けている。永久磁石で駆動される、半永久的な回転機構。電源さえ供給されれば、100年でも、200年でも回り続ける設計だ。


正臣はその箱に近づき、耳を当てた。


聞こえる。確かに聞こえる。


ドクン…ドクン…ドクン…


146回/分。


二つの心臓の鼓動。いや、正確には二つの意識が、この箱の中で同期している音だ。真理子の記録と美咲の記録が、73Hzという共通の周波数で共鳴し、新しい何かを生み出している。


「お父さん…」


声が聞こえた。


いや、聞こえたような気がした。


それは音ではなく、磁気ドラムの回転が生み出す微細な振動が、頭蓋骨を通じて直接聴覚野に届いているのかもしれない。あるいは、正臣の疲労した脳が生み出した幻聴か。


「正臣…」


また声が聞こえた。今度は真理子の声だ。


二つの声が重なり合い、干渉し、新しい音色を作り出している。それは美しく、そして恐ろしかった。


「ありがとう…永遠に、してくれて…」


正臣の目から涙が溢れた。頬を伝う涙は、この無響空間の異常な湿度のせいで、すぐに乾かない。ぬるりと粘りつくように皮膚に張り付いたまま、顎まで這っていく。


「お前たち…本当に、そこにいるのか…?」


正臣が、震える声で問いかけた。


「いるよ…」


箱の中から答えが返ってきた。錯覚か、現実か、もはや区別がつかない。


「ずっと、ここにいるよ…お母さんと、一緒に…永遠に…」


正臣は箱を抱きしめた。冷たい金属の表面が、涙で濡れた頬に触れる。その冷たさは、まるで墓石に触れているかのようだった。


だが――その冷たさの奥に、確かな温もりがある。


37.3度。


微熱を帯びた、生命の温度。


内部の電子回路が発する廃熱ではない。これは、二つの意識が持つ体温だ。記録された記憶が、物理的な熱エネルギーとして具現化している。


「すまなかった…お前たちを、こんな形でしか…」


「いいの…」


声が優しく答える。


「これで、よかったの…これで――私たちは、消えない…忘れられない…永遠に、生き続ける…」


正臣は箱から離れた。そして、最後の作業に取りかかる。


証拠隠滅。


床を這うようにして、美咲の汗を拭き取っていく。白いタオルが、すぐに黄ばんだ色に染まる。それは単なる汗ではない。死の直前、彼女の体から滲み出た、生命の最後の水分だ。


ピアノの鍵盤についた涙の痕を、アルコールで丁寧に拭く。象牙の表面から、わずかに塩の匂いが立ち上る。


壁に付着した何かの液体――おそらく美咲が最期に嘔吐したものの飛沫――を、漂白剤で消していく。ツンとした刺激臭が鼻腔を突き刺す。


すべての痕跡を消していく。まるで、何も起こらなかったかのように。


だが――一つだけ、消せないものがあった。


ピアノの中央ド(C4)の鍵盤。


そこに、うっすらと焼き付いた跡がある。指紋の形。美咲の指紋。


最後の演奏で、彼女の指は摂氏50度近くまで加熱されていた。異常な集中状態が引き起こした、生理現象。その熱と摩擦によって、象牙の表面にタンパク質が焼き付いたのだ。


正臣はその鍵盤に、そっと触れた。


冷たい。


もう、37度の温もりはない。ただの物質に戻っている。


でも――確かに、ここに美咲はいた。


この痕跡だけは、永遠に残る。

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