第117話「侵入」
午後8時。渋谷駅ハチ公前。
そこに香織が立っていた。大きなバッグを持って。
「凛」「お母さん」
二人は抱き合った。「無事で良かった……」「お母さんも」
香織は美波にも頭を下げた。「美波さん、いつも娘がお世話になってます」
「いえ……」美波が恥ずかしそうに言った。「凛と一緒にいられて私も嬉しいです」
香織がバッグを開けた。中には電磁石。50キロの重量。分解してある。コイルと電源。
「これで」香織が言った。「ムネモシュネを破壊する。磁気記録を完全に消去する」
三人は駅を出た。タクシーを拾う。
「柳沢邸まで」
香織が運転手に告げた。運転手は少し驚いた顔をしたが頷いた。
タクシーが動き出した。渋谷の夜景。ネオンが流れていく。でも至る所に白い服の人々。まだ増え続けている。
「全国で」香織が言った。「同じことが起きてる。大阪、名古屋、福岡。すべての主要都市で記録者の集会。そして73Hzの共鳴。このままだと日本中が、いや世界中が記録に飲み込まれる」
凛は窓の外を見た。白い服の人々。みんな同じ表情。虚ろな目。微笑み。そして記録メディアを持っている。
個が消えている。みんな一つになっている。
それは幸せなのか。正臣はそう信じている。でも凛には分からない。個を失うことが本当に幸せなのか。
「着きました」運転手が言った。
タクシーが止まった。そこは柳沢邸の近く。
三人はタクシーを降りた。そして柳沢邸に近づいた。
巨大な洋館。明治時代の建築。周りには高い塀。でも人の気配がない。記録された人々はみんな渋谷に行っている。
今なら侵入できる。
「行こう」香織が言った。
三人は裏口に向かった。香織が25年前の合鍵を取り出す。鍵穴に差し込む。回す。
カチャッ。開いた。
「まだ使える……」
三人は中に入った。廊下。長い廊下。埃っぽい空気。誰も住んでいない。でも記録された人々が出入りしている痕跡。床の足跡。壁の手跡。
静かに進む。ヘッドライトだけが暗闇を照らす。
やがて大きなホール。吹き抜けになっている。天井は高い。そして中央には階段。地下への階段。
「あそこ」香織が指差した。「地下3階にムネモシュネがある」
三人は階段を降り始めた。地下1階、地下2階、地下3階。最深部。
そこには重厚な扉。鉄製の扉。
香織が扉を開けようとした。でも鍵がかかっている。
「壊す」凛が言った。
彼女は電磁石の一部を手に取った。重い金属の塊。それを扉の鍵穴に叩きつけた。
ガンッ! 一度、二度、三度。
鍵が壊れた。ガチャッ。
扉が開いた。
三人は中に入った。
そして見た。
黒い箱。高さ2メートル。幅1メートル。金属製。表面には無数のケーブル。そして磁気ドラムが回転している音。
ウィーーーーーン……
低い唸り声。
これがムネモシュネ。すべての記録の源。
真理子、美咲、隆。そして数千、数万の人々の意識が記録されている。
「これを」凛が呟いた。「壊す……」
三人は電磁石を組み立て始めた。
最後の戦い。記録との決着。そしてすべての人々の解放。
それが今、始まる。




