第110話「臨界点と解放」
20分経過。心拍数:105。
30分経過。心拍数:108。
もう限界が近い。でも凛は言い続けた。
「私は私である。73ではない」
30回。40回。50回。
あと23回。もう少し。もう少しで73回。そうすれば上書き消去が完了する。元に戻れる。
時計を見る。午後5時40分。あと33分。
40分経過。
凛はもう限界だった。心拍数:110。
美波が約束通り停止ボタンに手を伸ばした。
「ごめん、凛。止める」
「待って!」凛が叫んだ。「あと、あと13回! 73回まであと13回だけ!」
美波は凛を見た。
凛の顔は汗でびっしょり。目は充血している。唇は震えている。
でもその目にはまだ意志がある。凛の意志。消えていない。
「お願い……」凛が懇願した。「信じて……」
美波は涙を流しながら頷いた。
「分かった……でも115超えたら本当に止める」
「約束する」
凛はまた言い始めた。
「私は私である。73ではない」
61回目。62回目。63回目。
頭が割れそうに痛い。心臓が爆発しそうに速い。でも止まらない。止められない。
64回目。65回目。66回目。
画面の中で美咲が崩れ落ちた。真理子が悲鳴を上げた。隆が意識を失った。すべての記録が終わりに向かっている。
67回目。68回目。69回目。
あと4回。
凛の視界がぼやけてきた。意識が遠のいていく。でも言い続ける。
70回目。71回目。72回目。
そして――最後。
凛は最後の力を振り絞って叫んだ。
「私は――私である――73では――ない!」
73回目。
その瞬間――すべてが止まった。
5つのメディアが同時に停止した。
VHSデッキが止まった。カセットデッキが止まった。MDプレーヤーが止まった。パソコンがフリーズした。8mmプロジェクターが停止した。
音が消えた。
完全な静寂。73Hzのうなりも消えた。
世界が静かになった。まるで時間が止まったように。
凛は床に倒れた。意識が遠のいていく。闇が迫ってくる。
「凛!」
美波が叫んだ。
「凛! 起きて!」
美波が凛を抱き起こした。
「心拍数――」
美波が凛の手首を掴んだ。脈を測る。
ドクン…ドクン…ドクン…
遅い。さっきより明らかに遅い。
15秒で17回。1分で68回。
「68……」美波が呟いた。「戻った……正常に戻った……」
凛の目がゆっくりと開いた。焦点が定まらない。でも徐々に戻ってくる。
「美波……?」
「凛!」
美波が凛を抱きしめた。涙が止まらない。
「良かった……本当に良かった……」
凛は自分の胸に手を当てた。
心臓。ゆっくりと鳴っている。
ドクン…ドクン…ドクン…
68回/分。正常。
そして頭の中。もう無数の声は聞こえない。真理子も、美咲も、隆も。
ただ静寂。平和な静寂。
「戻った……」凛が呟いた。「私、戻った……」
美波が泣きながら笑った。「うん。戻った。おかえり、凛」
二人はしばらく抱き合っていた。床に座り込んで。窓の外が暗くなっていく。
時計を見る。午後6時13分。
73分間。終わった。
凛は生き延びた。自分を保った。個を失わなかった。
上書き消去――成功。




