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ムネモシュネの箱 ― 73Hzの永遠 ―  作者: 大西さん
第五章「73の意味」
110/133

第109話「抵抗と限界」

凛は口を開いた。


「私は――」声が震える。「私である――73では――ない……」


その言葉を発した瞬間、何かが変わった。


部屋の空気が揺れた。73Hzの音が一瞬弱くなった。まるで言葉が音波を打ち消したかのように。


「効いてる……」美波が呟いた。「凛、続けて。73回言って」


凛はもう一度言った。


「私は私である。73ではない」


2回目。3回目。4回目。


言葉を繰り返す度に意識が少しずつ戻ってくる。自分が凛だという確信。境界が少しずつはっきりしていく。


でも――


記録は反撃してきた。


画面の中の美咲が叫んだ。


「やめて! 来ないで! 一人にしないで!」


美咲の悲鳴。孤独への恐怖。それが凛の心に直撃する。まるで自分の恐怖のように。


「美咲……」凛が呟いた。「私も一人は嫌……」


でも――違う。


私は一人じゃない。美波がいる。母がいる。そして父の愛もある。


「私は私である」凛がまた言った。「73ではない」


5回目。6回目。7回目。


でも記録の圧力は強くなっていく。真理子のピアノ、美咲の演奏、隆の告白。すべてが凛を飲み込もうとする。


「こっちに来て」真理子の声。「一緒にいよう。永遠に。お母さんと、美咲と、隆と、みんなで、一つに」


凛の意識がまた揺らいだ。


一つになる。それは幸せなこと? 孤独じゃない。みんなと繋がっている。


でもそれは個の喪失。自分が消える。


「いや……」凛が首を振った。「私は私でいたい……」


「私は私である。73ではない」


8回目。9回目。10回目。


心拍数を美波が測る。


「102……」美波の声が切羽詰まっている。「凛、もうやばい……73まであと29……このペースだと30分後には73になる……」


でもまだ15分しか経っていない。73分まであと58分。


もたない。このままでは73になる。そして個が消える。


「止める!」


美波が叫んだ。彼女は各機器の停止ボタンに手を伸ばした。


「待って!」凛が叫んだ。「まだ、まだ大丈夫!」


「でも凛、心拍数が――」


「大丈夫!」凛が必死に言った。目に力を込める。「私はまだ私! 意識ある! だから続けさせて!」


美波は迷った。友達を失うかもしれない。でも凛の目を見て決めた。


その目にはまだ凛がいた。美咲でも真理子でもない。凛が。


「分かった……」美波が言った。「でも心拍数が110超えたら問答無用で止める。約束して」


「約束する」


凛はまた音声コマンドを続けた。


「私は私である。73ではない」


11回目。12回目。13回目。


その度に意識が少しずつ戻る。でも記録の圧力も強くなっていく。


5つのメディアがすべて最大音量で流れている。真理子の悲鳴、美咲の恐怖、隆の愛、正臣の狂気。すべてが混ざり合って一つの轟音になる。


そして73Hzのうなり。ブーーーーーン……部屋全体が震えている。窓ガラスが震える。床が震える。凛の骨が震える。


時計を見る。午後5時15分。


あと58分。


心臓が激しく打つ。ドクンドクンドクンドクン。


もう数えられない。速すぎて。


「私は私である。73ではない」


14回目。15回目。16回目。


凛は必死に言葉を繰り返した。それだけが自分を保つ方法。


それだけが凛を凛として保つ唯一の手段。

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