第109話「抵抗と限界」
凛は口を開いた。
「私は――」声が震える。「私である――73では――ない……」
その言葉を発した瞬間、何かが変わった。
部屋の空気が揺れた。73Hzの音が一瞬弱くなった。まるで言葉が音波を打ち消したかのように。
「効いてる……」美波が呟いた。「凛、続けて。73回言って」
凛はもう一度言った。
「私は私である。73ではない」
2回目。3回目。4回目。
言葉を繰り返す度に意識が少しずつ戻ってくる。自分が凛だという確信。境界が少しずつはっきりしていく。
でも――
記録は反撃してきた。
画面の中の美咲が叫んだ。
「やめて! 来ないで! 一人にしないで!」
美咲の悲鳴。孤独への恐怖。それが凛の心に直撃する。まるで自分の恐怖のように。
「美咲……」凛が呟いた。「私も一人は嫌……」
でも――違う。
私は一人じゃない。美波がいる。母がいる。そして父の愛もある。
「私は私である」凛がまた言った。「73ではない」
5回目。6回目。7回目。
でも記録の圧力は強くなっていく。真理子のピアノ、美咲の演奏、隆の告白。すべてが凛を飲み込もうとする。
「こっちに来て」真理子の声。「一緒にいよう。永遠に。お母さんと、美咲と、隆と、みんなで、一つに」
凛の意識がまた揺らいだ。
一つになる。それは幸せなこと? 孤独じゃない。みんなと繋がっている。
でもそれは個の喪失。自分が消える。
「いや……」凛が首を振った。「私は私でいたい……」
「私は私である。73ではない」
8回目。9回目。10回目。
心拍数を美波が測る。
「102……」美波の声が切羽詰まっている。「凛、もうやばい……73まであと29……このペースだと30分後には73になる……」
でもまだ15分しか経っていない。73分まであと58分。
もたない。このままでは73になる。そして個が消える。
「止める!」
美波が叫んだ。彼女は各機器の停止ボタンに手を伸ばした。
「待って!」凛が叫んだ。「まだ、まだ大丈夫!」
「でも凛、心拍数が――」
「大丈夫!」凛が必死に言った。目に力を込める。「私はまだ私! 意識ある! だから続けさせて!」
美波は迷った。友達を失うかもしれない。でも凛の目を見て決めた。
その目にはまだ凛がいた。美咲でも真理子でもない。凛が。
「分かった……」美波が言った。「でも心拍数が110超えたら問答無用で止める。約束して」
「約束する」
凛はまた音声コマンドを続けた。
「私は私である。73ではない」
11回目。12回目。13回目。
その度に意識が少しずつ戻る。でも記録の圧力も強くなっていく。
5つのメディアがすべて最大音量で流れている。真理子の悲鳴、美咲の恐怖、隆の愛、正臣の狂気。すべてが混ざり合って一つの轟音になる。
そして73Hzのうなり。ブーーーーーン……部屋全体が震えている。窓ガラスが震える。床が震える。凛の骨が震える。
時計を見る。午後5時15分。
あと58分。
心臓が激しく打つ。ドクンドクンドクンドクン。
もう数えられない。速すぎて。
「私は私である。73ではない」
14回目。15回目。16回目。
凛は必死に言葉を繰り返した。それだけが自分を保つ方法。
それだけが凛を凛として保つ唯一の手段。




