第108話「混濁する意識」
5分が経過した。
凛はもう自分が誰だか分からなくなり始めていた。
画面の中の美咲。それは自分? いや、違う。でも美咲の感情が凛の心に流れ込んでくる。恐怖。孤独。死への恐れ。まるで自分の感情のように。
ピアノを弾く手。それは美咲の手? それとも真理子の手? それとも自分の手?
分からない。境界が曖昧になっていく。
「凛」声が聞こえた。誰の声? 「しっかりして」
美波? いや、誰?
凛は必死に意識を保とうとした。
私は佐々木凛。25歳。大学院生。母は結城香織。父は佐々木隆。友達は田中美波。
私は私。
でもその確信が揺らいでいく。
私は本当に凛? それとも美咲? 真理子? 隆? みんな?
すべての声が混ざり合う。正臣の声「準備はいいかい、美咲」、美咲の声「……はい」、真理子のピアノの音、ショパン、隆の告白「僕は1974年、東京で生まれました……」
すべてが同時に流れてくる。混沌。音の混沌。映像の混沌。情報の洪水。
凛の頭が痛くなった。「うっ……」
「大丈夫?」美波が心配そうに見る。
「大丈夫……」凛が答えた。「続けて……」
でも本当は大丈夫じゃない。頭の中で無数の声が響いている。真理子の悲鳴、美咲の恐怖、隆の愛、正臣の狂気。すべてが渦巻いている。
そして低周波のうなり。
ブーーーーーン……
73Hz。5つのメディアから同時に。増幅された73Hz。
部屋全体が震え始めた。いや、凛の身体が震えているのか。それとも現実そのものが震えているのか。
境界が曖昧になっていく。自分と他者の境界。現実と記録の境界。すべてが溶け合っていく。
「心拍数測るよ」美波の声。
凛の手首に何かが触れる。冷たい。美波の指。
ドクン…ドクン…ドクン…
速い。とても速い。
「98……」美波の声が震えている。「凛、心拍数98……やばい……このままじゃ73を超える……」
でも凛は止められない。まだ5分しか経っていない。73分まであと68分。長い。あまりにも長い。
時計を見る。午後5時5分。針がゆっくりと動いている。まるで時間が引き伸ばされているような。
10分が経過した。
音が変化した。隆の声が大きくなった。
「凛と名付けたい」
その言葉が何度も繰り返される。
「凛」「凛」「凛」
エコーのように。反響する。部屋中に響き渡る。
「お父さん……」凛が呟いた。
画面の中に隆が映った。防音室の椅子。マイクの前。
そして隆がこちらを見た。まるで凛を見ているかのように。直接目が合った。
「凛……」隆が言った。「聞こえるかい?」
凛は息を呑んだ。
これは記録? それとも本当に父が話しかけている?
「お前がこの記録を見ているということは予想通りだ。お前は記録に引き寄せられた。そして今、記録されようとしている」
凛の心臓が激しく打つ。ドクンドクンドクン。
「でも」隆が続けた。「止めるんだ。音声コマンドを言え。『私は私である。73ではない』」
「73回繰り返せ」
「そうすれば元に戻れる」
「でも忘れるな」
隆の表情が厳しくなった。「これは試練だ。お前の意志の強さが試される。個を保てるかどうか」
「頑張れ、凛。お前ならできる」
画面が切り替わった。また美咲のピアノ演奏。真理子の悲鳴。すべてが混ざり合う。
凛は涙を流していた。温かい涙。頬を伝う。
「お父さん……」
美波が凛の肩を支えている。「凛、大丈夫? もう止める?」
「ううん……」凛が首を振った。「続ける……お父さんが言った……頑張れって……」
時計を見る。午後5時10分。
あと63分。




