第105話「限界の朝」
12月10日 水曜日 午前7時。
凛は目が覚めた。身体が鉛のように重い。頭の奥がズキズキと痛む。額に手を当てると熱い。微熱が続いている。
でも今日――最後のメディアを見る日。
フロッピーディスク。既にデータは確認した。でももう一度詳しく見なければならない。そこに上書き消去の方法があるはず。
凛はベッドから起き上がった。身体が思うように動かない。まるで自分の身体じゃないような感覚。
美波はソファで眠っていた。ここ数日ずっと凛の側にいてくれた。彼女の寝顔は疲れ切っている。目の下に深いクマ。でも穏やかな表情。
「美波……」凛が優しく揺さぶった。「起きて……」
美波が目を覚ました。「凛……おはよう……」
「おはよう」
「今日」美波が言った。声がかすれている。「12月10日……集会の日……」
そう。今日、全国で記録者の集会が開かれる。午後7時3分。730人が渋谷に集まる。他の都市でも同じように。何かが起こる。
その前に5つ揃えて上書き消去しなければ。
「心拍数、測ってみて」美波が言った。
凛は手首に指を当てた。橈骨動脈。脈を測る。
ドクン…ドクン…ドクン…
速い。昨夜より明らかに速い気がする。
15秒で22回。いや、23回? 速すぎて数えにくい。
計算する。1分で92回。
「92……」凛が呟いた。「また上がってる……昨夜は88だったのに……」
美波の顔が青ざめた。血の気が引いていく。「4も上がった……何もしてないのに……記録が自然に進行してる……」
凛もそれを感じていた。もう止められない。時間の問題。いつか73になる。
そしてその時――個が消える。凛が凛でなくなる。記録の一部になる。
「早く」凛が言った。「フロッピーを見よう。そして上書き消去の方法を見つけて実行する。今日中に」
美波は頷いた。「分かった」
窓の外は曇り空。灰色の雲が低く垂れ込めている。まるで世界全体が記録に侵食されているような。
午前9時。
二人は大学の情報工学科に向かった。古いパソコンがある資料室。Windows 98のマシン。フロッピーディスクドライブ付き。博物館のような場所。
「これで」美波が言った。「もう一度詳しくデータを見よう」
凛はフロッピーディスクを挿入した。ガチャッという音。ドライブがディスクを読み込む。
ガリガリガリ……懐かしい音。磁気ヘッドがディスクを読む音。
そしてファイル一覧が表示される。
RESEARCH_073.txt
SUBJECT_LIST.xls
BRAINWAVE_DATA.dat
INSTRUCTION.txt
OVERRIDE.txt
「あれ?」美波が言った。「このファイル、前見た時なかったよね? OVERRIDE.txt」
凛も気づいた。確かに前回はなかった。新しいファイル? いや、隠しファイル?
「開いてみよう」
美波がファイルをダブルクリックした。テキストエディタで内容が表示される。
『上書き消去プロトコル
警告:このファイルは、5つすべてのメディアを視聴した者のみに表示されます。
あなたがこのファイルを見ているということは、すべての記録を体験したということです。
おめでとう。
あなたは完全な記録の一部となりました。
しかし、まだ元に戻ることができます。
上書き消去の手順:
1. 5つすべてのメディアを用意する
2. 同時刻にすべてを再生する
3. 73分間、すべてを視聴し続ける
4. その後、特定の音声コマンドを発声する
音声コマンド:「私は私である。73ではない」
これを73回繰り返す。
そうすれば記録は上書き消去され、元のあなたに戻ります。
ただし、必ず73分以内に完了してください。
73分を超えると不可逆的な転写が完了し、二度と戻れません。
成功を祈ります。
柳沢正臣』
凛と美波は顔を見合わせた。
「これ……」凛が呟いた。「本当にできるの?」
美波が画面をじっと見た。「分からない……でも他に方法がない……これを試すしかない……」
凛は内容をもう一度読んだ。
5つすべてのメディアを用意する――VHS、カセット、MD、フロッピー、8mmフィルム。すべて持っている。
同時刻にすべてを再生する――これは難しい。でもできないことはない。
73分間すべてを視聴し続ける――73分。長い。そして危険。
音声コマンドを73回繰り返す――「私は私である。73ではない」。73回。また73という数字。
「凛」美波が真剣な顔で言った。「これ、本当にやる? 73分間すべてのメディアを見続けたらどうなるか……心拍数が73を超えるかもしれない……」
凛はそれを理解していた。危険。極めて危険。
でもやるしかない。
「やる」凛が決意した。「今日、今夜、集会の前に実行する」
美波は長い沈黙の後、頷いた。「分かった。じゃあ準備しよう」




