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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

鏡の湖

作者: MAN

 

 都会の喧騒に疲れ果てた私は、28歳の夏、故郷の霧沢村に戻った。会社での過労と人間関係の軋轢が私の心を蝕み、精神科医には「軽度の適応障害」と診断されていた。休職を勧められ、行くあてもなく、実家の古い木造家屋に身を寄せた。霧沢は山に囲まれた小さな村で、常に霧が漂い、湿った空気が肌にまとわりつく。実家は祖父母が亡くなってから空き家で、黴臭い畳と軋む床が時の流れを物語っていた。裏庭の先には「霧湖」。子供の頃、祖母が言っていた。


「あの湖は心を映す。弱い心は湖に飲まれるよ」。


 都会育ちの私は、そんな迷信を笑いものだと思っていた。霧湖は村の中心にあり、不気味なほど静かだった。水面は鏡のように滑らかで、どんな風でも波立たない。村人たちは湖の名前を口にせず、子供たちは近づかなかった。私も、都会の論理でその存在を無視しようとした。



 異変


 最初の異変実家に戻って数日後の深夜、眠れずに裏庭に立っていた。都会の不眠症がここでも続いていた。時計は2時を過ぎ、村は静寂に包まれていた。ふと、湖の方向から音が聞こえた。ポチャン。ポチャン。石が水に落ちるような音。私は懐中電灯を手に、好奇心に駆られて湖に向かった。水面は月明かりを浴び、銀色に輝いていた。音の正体は見当たらず、ただ水面が異様に静かだった。懐中電灯を向けると、湖の中央に小さな波紋が広がった。


「誰かいる?」


 そう呼びかけた、返事はない。波紋は私の足元に近づいてくる。水面に映る自分の顔を見た瞬間、背筋が凍った。私の顔のはずなのに、目が少し大きすぎ、口元が歪んでいる。まるで私が仮面をかぶっているようだった。「疲れてるだけ」と自分に言い聞かせ、家に戻った。その夜、夢を見た。湖の底に沈む自分。冷たい水が肺に流れ込み、動けない体。遠くで私の声で笑う誰かがいた。


 誘い


 翌朝、喉がひどく渇いていた。台所の水道をひねると、水が茶色く濁り、腐臭が漂った。ペットボトルの水で顔を洗いながら、鏡に映る自分の顔が昨夜の湖の反射と同じく歪んでいる気がした。錯覚だと自分を納得させた。村人に湖のことを尋ねると、皆が口を閉ざした。隣の老女だけが、目を細めて言った。


「あんた、湖に近づいたな? 心の弱い者を湖は呼ぶ。見つめすぎると、心を盗まれるよ」。


 彼女の目は怯えに満ちていた。その夜から、湖のポチャンという音が毎晩聞こえるようになった。窓の外を見ても誰もいないのに、音は頭の中で響く。仕事のストレスで神経が過敏になっているだけだと自分に言い聞かせたが、夢はエスカレートした。湖の底で動けず、水面の上から私の声が囁く。


「おいで。こっちは楽だよ」。


 その声は私の心の奥底から湧き上がるようだった。


 侵食


 一週間後、湖に近づくのが怖くなり、家に閉じこもった。だが、水の存在は家の中にも忍び寄る。風呂の水が濁り、蛇口から滴る水がすすり泣きのように聞こえる。夜、目を閉じると、ゴボゴボという水の音が耳元で響く。喉を詰まらせたような、湿った音。ある夜、耐えきれず湖に向かった。水面は私の姿を映し、だが今度は私の顔ではない。目が真っ黒で、口が裂けるように広がっている。私の声で、だが私のものではない笑い声が響いた。


「お前もぉここにいたいんだろぉ?」


 叫び声を上げ、湖から逃げ出した。家に戻り、ドアを施錠し、布団をかぶった。だが、耳元で水の音が止まない。ゴボゴボ。ポチャン。私の心臓の鼓動と同期するように。


 崩壊


 翌朝、鏡の私の目は血走り、顔は青白かった。会社からのメールも読む気力がなかった。私はノートに自分の状態を書き留め始めた。現実と幻覚の区別をつけるためだ。だが、ペンが勝手に動く感覚に襲われた。私の手が書いた文字は、「湖は私。私は湖」。ぞっとしてペンを投げ出した。ノートにはさらに文字が続いていた。私の筆跡ではない、濡れたような文字。「おいで。おいで。おいで」。ページを破り捨て、ゴミ箱に放り込んだが、夜になるとゴミ箱から水が滴る音がした気がした。私は朝一番距離がそこそこある神社に向かった。そこの神主は、


「湖は穢れを清める場所だったが、人の欲望で穢れた。あんたの心が弱ってるから、湖に呼ばれてる」


 と警告し、塩と御札を渡した。だが、その夜、御札は剥がれ、塩は散らばっていた。部屋の空気が湿り、窓の外の湖が家のすぐ裏にあるように見えた。

 数百メートルは離れているのに..。


 最後の夜


 私は逃げようとした。車に飛び乗り、村を出ようとしたが、霧に閉ざされ、どの道を走っても湖の前に戻ってくる。エンジンを切り、車内で縮こまった。フロントガラスに水滴が落ち、車内に水が染み出し、シートが濡れ、足元に水が溜まる。私はパニックでドアを開けると、そこは湖の畔だった。水面が囁く。


「ここなら、疲れも痛みもない」。


 私の声で、諦めと安堵が混じる誘惑。私は湖に足を踏み入れた。水は冷たく、だが温かく、私を包み込む。抵抗する力が、すでに私にはなかった。


 真相


 俺、健太、19歳。霧沢村で生まれ育った。この村、なんか変だ。都会から帰ってきた彩花さんが、湖畔で消えたって噂だ。俺は彩花さんにはかなりお世話になっていた。車は水浸しで残ってたけど、本人はどこにもいない。ジジババたちは「霧湖のせいだ」って目を伏せる。俺、子供の頃から湖は怖かったけど、ただの迷信だろって思ってた。ある夜、友達と湖の話をしたら、怖がりながらも気になって見に行った。月明かりで水面がキラキラして、でも静かすぎて背筋が寒い。なんか、誰かに見られてる気がした。

 次の日、公民館の倉庫で埃まみれの日記を見つけた。間違いなく彩花さんの筆跡だった。


「湖は私を呼んだのではない。私が湖だった。都会での失敗、孤独、恐怖。あの湖は私の心そのものだった。私は逃げようとしたが、湖は私の一部であり、私自身だった。湖に沈んだ夜、私は水面の上に立っていた。笑っていたのは私だ。湖は私を飲み込んだのではなく、私が湖を選んだのだ。そして今、私は湖そのものとして、村を見ている。次の者を待っている。湖は私。私が湖。あなたも、湖にならない?」


 ゾッとした。他のページは水で滲んで、知らない筆跡で「湖は私。私は湖」って何度も書いてある。まるで湖が書いたみたいだ。床を見ると、濡れた足跡が湖の方向に続いてた。俺、気づいた。ポケットにあったタバコ、びしょ濡れだった。夜、鏡を見ると、俺の目が少し大きすぎる。彩花さんの声が、頭の中で響く。「おいで」と。





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