変化を恐れることなかれ①
「くらあっっ!何回言えば分かるんだ!」
聞きなれた怒号は、飽き飽きしたように机に長い脚を乗せながらスマホを触っている女に響くわけがない。
「あ?話しかけてんじゃねーよ、カッパハゲ。セクハラで訴えんぞ。」
舐めた口調に顎までマスクを下げる動作。ザ・チンピラの女の名は「犬巻 せせら」。この学校一の問題児。
周りを蠅のように集る取り巻き達も、もてはやすように犬巻にしっぽを振っている。
それより俺は今機嫌が悪い。明日からテストだというのにこんな馬鹿どもに授業を邪魔されているから。
これでは進まないじゃないか。いい加減にしてほしい。
俺はいきり立ってついに声に出す。
「いい加減静かにしてくれないかな!」
机を叩いてこの狂ってしまった空間に異議を唱えた。
彼女たちは怖がったように「なんだよ……。」なんて言っている。
これで少しは平和になる。はあ、やれやれ。困ったものだな……。
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……なんて言えたらな。
というか出来たら苦労しないっての。生まれてこの方、陰キャの俺、『越沼 善治郎』に不可能な妄想を繰り広げた。
犬巻せせらは、そのあいだもずっとギャハハと笑っていた。
*
さて、ここで一つ俺は文句を言おう。
なぜ、水曜日という一番人が憂鬱になる1週間の1日で。
なぜ、7時間授業という拷問に近い時間で。
なぜ、その最後に体育が食い込んでいるのか。
そしてなぜ、持久走なのか。
俺は酸素が全くなく、体より先に機能停止しそうな脳で考える。
口の中が鉄の味で広がって、気持ち悪さを覚える。
ふと笑い声が後ろの方から聞こえた。膝に手をついたまま振り返ると、そこには「犬巻せせら」が、若い体育教師の男を馬鹿にしたように笑っていた。対する教師もまんざらでもなさそうにデレデレと話している。
随分と尻に敷かれているみたいだ。恥ずかしいと思った方がいい。
軽蔑の目を向けていると、周りが騒がしくなっていることに気が付いた。
特に男たち。彼らの目線の向かう先には背が同じくらいの少女が二人。
1人はウルフカットの髪にバチバチに開いたピアス跡。けだるげな目つきに猫背のその姿はさながら「ダウナー系」とやらに分類されるタイプの人だ。
もう一人、終始笑顔の少女は、緩めのカールがかかったロングヘアで、こっちは「清楚系」と分類されるだろう。
「おいおい。今日もいいですなあ、『ロボット天使コンビ』!」
おっさんみたいな口調の男子が言う通り、彼女ら、「美作 葵」と「鉄矢しずく」は、さながら機械のような応答しかしない美作と、正反対に誰にでも親切な鉄矢二人に名付けられたあだ名だ。
二人はよく一緒におり、その性格の違いから、百合好き・美少女好きに大人気だそうだ。かくいう俺は全く興味はない。二次元にとらわれた俺にとって一ミリも沸いてくるものがない。
ちょうど呼吸も落ち着き始め、顔を上げると限界まで傾いた陽が、汗だくの俺の顔を嫌になるほど照らしていた。
*
ふう。今日は一段と疲れた。
小テストは2個あったし、犬巻はうるさくて授業が進まなかったし、明日からテストだし……。
極めつけには持久走。ほんとによく頑張った、俺。
さっさと帰って、テスト勉強しつつ、溜まった今期アニメを消化しよう…………。
一番最初は「俺の転生先、北海道旭川市でした」を見よう。今期一の期待作品だ。特に作画がすごいと話題沸騰らしい。
「あ…………最悪だ。」
今日初の発言は、夕方5時の廊下での独り言だった。
体操服を教室に忘れてきてしまった。取りに帰って今日中に洗濯しなければ。
急いで廊下を走って「1-1」の教室を開ける。最近、古くなってきた校舎は、ドアを開けただけでなかなかの振動が響く。
教室のカーテンは開いてるらしく、沈みかけた西日に目をやられる。
自動的に閉じた目をゆっくりと開けた。
ん?誰かいるような――。
「すんすうはあ、すんすんすんすん、すんすんすんはあああ。すん、ふうう。すんすんすん。」
すんすん、す。
目が合ってしまった。
俺の体操服、なんかめっちゃ嗅がれてるんですけど。すいません。返してください。
というか、誰?なんか妙に毛深い……?
いや、それ以上に………………獣?
「…………………………お邪魔しました。」
ゆっくりとドアを閉め、俺は踵を返すようにドアに背中を向ける。
俺は何も見ていない。本当に何も見ていない。
さ。帰ってアニメと勉強――。
ガラスの割れた音が左耳のすぐ近くから鳴った。
呆然としていると突然銀色の体毛が生えた、さながら狼のような手がヌッと現れる。
「見たな――――。」
俺は持久走の疲れなど忘れたように全力疾走を始める。
木造の廊下を走っては、左前方に階段を見つける。
よし、こっから一階に行って――。
コンマ数秒、気がつけば俺は仰向けになって、毛むくじゃらの獣に四肢を押さえつけられていた。
そいつは深く唸りながら、とんでもなく強い力で逃がさないように掴んでいた。
「た、た、助けて。何も見てないです本当に……。」
ふと、命乞いの途中。この獣がしている顎マスクに気がつく。
「あんだけしっかり見といて逃すわけねえだろ、ここで殺して………………殺して………………。」
おっと?獣の殺意に満ちた目が、だんだん丸くなっていく。
深く唸っていた筈の喉の奥からゴロゴロと甘える猫のような音も聞こえる。
獣は、突如俺の胸元に顔を埋め始めた。
「え、ちょちょちょ。」
「クソ!マジなんなんだよ、『越沼』てめえ、この匂い! すん、すうすん ズルだろズル! すん、すんすん。」
……めっちゃ俺の匂い嗅いでる。
というか、この声と、マスク。銀色の髪。いや、まさか。そんな訳……。
「…………犬巻さん?」
顔を赤めながら俺の匂いを嗅いで(吸って)いた獣は、一気に顔を蒼くしていく。
あまりにも分かりやすすぎますよ、犬巻さん……。
俺は脇腹のそばに捨てられていた体操服をつかんで犬巻のとても人間とは思えない、犬のように高い鼻を覆うように被せた。
一瞬力が抜かれ、俺は転がって仰向け状態から緊急脱出した。
そのあとの事は正直、よく覚えていない……。