利成君との距離
「フローライト第四十二話」
桜散る頃、その日は新しい家に引っ越す日だった。ほとんど引っ越し業者に頼んでいたので当日は明希が何をするということもなかったが、その日は利成がどうしても仕事だったので、自力で新しい家まで移動が必要だった。
引っ越し業者が来る予定の朝九時より少し前にインターホンが鳴ってので(あれ?早いな)と明希はカメラをのぞいた。
(あ・・・)
見ると一樹が一人立っていた。
「はい?」と返事をすると「おはようございます」と一樹が言った。
「今、開けるね」とすぐにロックを解除すると、間もなく部屋のドアのインターホンが鳴った。ドアを開けると「おはよう。天城さんに頼まれて手伝いに来たよ」と笑顔で一樹が言った。
「え?そうなの?」と明希は驚いた。利成は何も言ってなかった。
「明希さん、聞いてなかったんだ」と楽しそうに一樹が言う。
「うん、知らなかったよ。ごめんね、忙しいところ」と明希が言うと「そんなことないよ、暇だし」と一樹が笑顔を見せた。
部屋の中は段ボールが積まれていて後は業者待ちだった。
「でも、引っ越しちゃうのか・・・何かもったいない気もするね」と一樹が窓から外を見ている。
一樹に言われて明希もバルコニーの方を見つめた。あの離婚の危機の時にバルコニーに出て色鉛筆で一心不乱に色を塗ったことを思い出す。あのオレンジ色は数日後の雨ですぐに流されてしまっていた。
「一樹君は元気だった?久しぶりだよね?」と明希は言った。
「ん・・・ちょっと入院してて・・・」
「え?!」と明希は驚いた。「入院ってどこか悪かったの?」
「あれ?天城さんから聞いてないんだ?」
「うん、聞いてないよ」
「そっか・・・実は、元々心臓に持病があって・・・ちょっと調子が悪かったから少し入院したりしてたから・・・」
「え?心臓って大丈夫なの?」
「大丈夫、命に別状あるような病気じゃないんだ。普段はまったく普通だしね」
「そうなの?」
「うん、そう」と一樹が笑顔になる。
そういえば翔太のことやら引っ越しのことで、全然一樹にラインをしてなかったなと思い出す。
「ごめんね、全然ラインもしてなかったよね」
「そんなこといいんだよ。俺もしてなかったんだから」
「うん・・・」
引っ越し業者が到着して大方の整理がつくと、一樹の車で新しい家に向かった。
「天気が良くて良かったね」と一樹が言う。
「そうだね。今度の家、住宅街で少し坂道なの。スーパーも遠いし・・・コンビニまでもわりと歩くからどうしようかと思って・・・」
「明希さんも免許取ったら?」
「んー・・・どうしよう、あんまり自信ないんだよね」と明希は肩をすくめた。
「天城さんは何て言ってるの?」
「免許取るなら取ってもいいけど大丈夫?って聞かれた」
「ハハ・・・そう?」
「うん・・・自転車くらいにしといた方がいいかな」
「んー・・・そうかも?」と一樹が笑った。
新しい家について引っ越し業者が帰った時にはもう夕方四時くらいになっていた。これからしばらくの間は、この荷物の片付けに追われると思うと少しうんざりした。
「明希さん、何か動かすものがあったら動かしてあげるよ」
「うん、ありがと。今のところ大丈夫だよ」
「そう?じゃあ、荷物片づけるの手伝うね」
「あ、少し休憩しようよ。一樹君も疲れたでしょ?」
「そうでもないよ。ちょっと楽しいし」
「そう?」と明希が笑顔になると、一樹が少し顔を赤らめて明希から視線をそらした。
(やっぱり、何か可愛いな)と明希は思う。
夕方六時を過ぎると夕飯をどうしようかと思った。
「一樹君、一緒にご飯食べよう」と明希は言った。
「え?あ、もうこんな時間か・・・」と一樹が腕時計を見た。
「でも材料何もないからどうしようかな」と明希は部屋の中を見回した。
「今からじゃ色々大変だし、どこかに食べに行くほうがいいんじゃない?だけど天城さんは何時ごろ帰れるの?」
「そんなに遅くはならないって言ってはいたけど・・・」
「少し待つ?」
「んー・・・そうだね。じゃあ、近所のスーパーに行ってみようかな」
「そう?でも少し遠いんだよね?」
「うん、歩くと二十分くらいかかるかな」
「じゃあ、車で行こう」と一樹が言った。
外に出ると、まだ薄明るく空気も以前住んでいた場所より澄んでいる気がした。一樹の車で近所のスーパーまで行く。わりと大きめなスーパーで店内は明るい。明希がカゴを持つと一樹が「持つよ」と手を出した。
利成と一緒の時よりリラックスして店内を回る。利成と一緒だといつ誰かに声をかけられたり、囲まれたりするかもしれないと気が気じゃなかったのだ。
買い物を終えて家に戻ると家の前に利成の車があった。
「あ、戻ってるみたいだね」と一樹が言った。
家の鍵を開けて部屋に入ると、利成がリビングの床に座って荷物の段ボールに寄り掛かりスマホを見ていた。
「おかえり、お二人さん」と利成が顔を上げた。
「お疲れ様です」と一樹が頭を下げた。
「おかえりなさい」と明希が言うと、「買い物?」と利成が一樹の手にあるスーパーの袋を見た。
「うん、今帰ったの?」
「そうだよ」と立ち上がってから利成が「二人共、お疲れ様」と言った。
「夕飯はどうしよう?」と明希が言うと「外に行こう」と利成が言った。
「あ、じゃあ、僕はこれで・・・」と一樹が言うので「あ、一樹君も一緒に食べよう」と明希は言った。
「いや・・・」と利成が帰ると急に遠慮し始める一樹。
「一樹も来なよ。今日色々手伝ってくれたお礼におごるから」と利成が言った。
「すみません」と一樹が悪そうに頭を下げているのを見て、(そんなにしなくても・・・)と明希は思う。何だかものすごく利成が偉そうに見えるじゃない?
食事を終えてからその場から帰るという一樹をレストランの駐車場から見送った。
「今日はありがとう」と明希が言うと、一樹が「いいえ」と少し照れたような笑顔を見せた。それから利成に頭を下げると一樹は車を発進させた。
利成の車で新しい家に向かいながら明希はもう暗い外の景色を見つめた。もうあの豆粒のような車を見下ろすことができないんだなと少し寂しい気がした。都会の喧騒もそれはそれで明希は好きだった。
家に着いて電気を点けると、段ボールだらけの部屋が映し出される。
(あー・・・またしばらく片付けだな)と少し落ち込む。
「明希、片付けはゆっくりでいいよ」とそんな明希の心を読んだのか利成が言った。
「うん・・・」
「寝室はどう?」
「ベッドは入れたから寝るだけは大丈夫だよ」
「そう、お風呂は?」
「あ、まだ洗ってないよ。ちょっと待ってね」と明希が言うと「いいよ、自分でやるよ」と利成が言う。
利成が入浴している間、明希は二階のバルコニーに出てみた。ここは坂の上なので、前のマンションほどではないにしても町を見下ろすことができた。明かりが点いている家々が見えた。車はあまり走っていない。
(何かのどか・・・)
少し冷たいけれど優しい風に吹かれていると、「明希、寒くないの?」とお風呂上りの利成が窓から顔を出した。
「うん、大丈夫」と明希が答えると利成もバルコニーに出て来た。
「ちょっと風冷たいね」
「お風呂上りなんだから風邪ひいちゃうよ?」と明希は利成の濡れた髪を見た。
「大丈夫だよ。今度はまったく景色が変わったね」と利成が周りを見まわした。
「うん・・・ほんと」と明希も景色を見回す。
(庭も広いし・・・手入れとかどうしよう)とふと思う。
「明希も免許取りに行く?」と利成が言う。
「え?んー・・・どうしようかな・・・」
「買い物が前と違ってちょっと不便だよね」
「そうだね・・・でも、車大丈夫かな・・・」
「そうだね、取るだけ取ってみてもいいかもよ」
「ん・・・」
やっぱり何か考えなきゃなと思いつつ、明希も入浴を済ませて寝室に入った。ベッドは前と同じものだ。ただリビングのソファは利成が取り替えるというので古いのは処分していた。
寝室には利成がいなかった。仕事部屋は寝室の隣の部屋なのでそこの片付けでもしてるのかな・・・と明希もスマホを開いた。
翔太に引っ越しのことを伝えておこうかとGメールを開いたら、先に翔太からメールが来ていた。
<もしかして離婚って話になるかも?>
(え?)と明希はその文字を見つめた。あの電話で話してから数週間たっていた。
<ほんとに?ちゃんと謝った?>
そうメールを送信した。翔太が離婚なんてことになったら自分のせいの気がして何だか落ち着かなかった。
(大丈夫かな・・・)と明希は電話したい気持ちを抑えた。
寝室を出て明日の朝食の準備ができるようにキッチンを少し片づけてからまた寝室に戻った。スマホを開くと翔太から返信が来ていた。
<もちろん謝ったよ。だけど色々他の問題もあってね>
<他の問題?もう奥さん許してくれなさそうなの?>
そう返信した。何だか落ち着かなくなってくる。自分のせいかな・・・。
<電話していい?>
数分後にすぐに返信が来た。迷ったが気になってしょうがないので<いいよ>と返信をした。
数分後に電話がなる。明希は隣の部屋の方の壁を見た。利成はまだ多分仕事中だろう。
「もしもし?」と明希が出ると翔太が「大丈夫?」と言った。
「大丈夫だよ。離婚ってほんとに?」
「ん・・・ま」
「何で?謝ったんでしょ?」
「謝ったよ。迎えにもいったし」
「それでもダメなの?」
「まあね・・・うちの奥さん、明希と違ってきついんだよ」
(私と違ってって・・・)
「そう・・・」
「ま、明希のせいじゃないから気にしないでよ」と明るい声の翔太。
「でも、私のせいも少しあるよね」
「ないない。俺のせい」
「でも、私が翔太と会ったせいだよね」
「それは違うよ。俺が明希に会ったせいが正解」
「・・・・・・」
「引っ越しは?済んだの?」
「済んだよ。今日」
「じゃあ、今新しい家なんだ」
「うん、そう」
「じゃあ、俺と近いね」
「そうだね、前よりはね」
「会えない?」
「だって翔太は今、奥さんが怒って離婚の危機なんでしょ?そんなときに会えないよ」
「離婚したら会って」
「離婚しないでよ」
「なるべく俺もしたくはないけどね、難しいかも」
「まだ結婚したばかりじゃない。もう少し頑張れるよ」
「明希は我慢強いからね。そうやって頑張ってきたんだろうね」
「・・・・・・」
「明希のところまで車飛ばせば三十分で行けるのにな・・・」
「・・・だからーまず奥さんにもうちょっと謝って」
「もう謝ったよ。散々。疲れた」
「・・・・・・」
「一回でいいから明希としたい・・・」
「私はやだ」
「何で?」
「翔太が好きだから」
「意味わかんないけど?」
「捨てられるの嫌だから」
「捨てないって」
「絶対捨てられる」
「そもそも、明希は俺のものじゃないじゃん。だから捨てるも何もないって」
「・・・そうだけど・・・」
「じゃあ、いい?」
「やだ」
「即答すんなよ」
「即答する」
「バカ」
「ひどい。バカは翔太」
「明希の方がバカだよ」
「翔太がバカだよ。早く奥さんに謝って」
「謝ったって!しつこい」
「・・・・・・」
「・・・ごめん・・・でも、ほんとにいいんだよ、もう。元々そんなに結婚したかったわけじゃないんだし」
「翔太・・・」
「明希は気にすんなって。俺は大丈夫なんだから。ただ明希としたいだけだよ」と翔太が笑った。
「・・・私は・・・」
その時ガチャとドアが開いて明希はびっくりして思わずスマホの通話を切った。利成が明希の手元のスマホを見る。けれど利成は何も言わずに明希が座っているベッドまで来た。
「まだ寝ないの?」と利成が言う。
「ううん、寝る」と明希は手元のスイッチで部屋の電気を消した。
何となく気まずい空気の中、明希はベッドの中に入った。その途端、利成が口づけてきた。何度か口づけた後利成が明希の顔を見つめてから言った。
「もう、一回夏目としてきたら?」
「・・・・・・」
「そうしたらお互い心残りはなくなるよ」
「・・・・・・」
多分、今日は怒ってる・・・この前は隠れて電話しなくてもいいのになんて言ってたけど・・・。
「ごめんなさい・・・」と明希は謝った。
「何で謝るの?」
「・・・・・・」
「こないだ高校ん時の話ししたよね?」
「うん・・・」
「基本的に自分のもの取られるのは俺も気分悪いんだよ。黙認してたのは明希に気づいて欲しかったからだってわからなかったみたいだね」
「ごめん・・・」
「いいよ。夏目として」
「・・・しないよ」
利成がかなり感情的になってるのを感じた。今まで翔太としていいなんて言ったことなどなかったのだから。
「じゃあ、どうする?こうやってこそこそ電話でもして自慰でもする?」
(え?)と思う。明希はびっくりして利成の顔を見つめた。 もうこれは完全に怒っている に違いない。
「もう電話もしないよ」と明希は言った。
「そういうことじゃないだろ?明希の心が奪われたままっていうのが問題なんだよ」
「奪われてないよ」
「奪われてるから切れないんだよ」
明希はいつもとまったく違う様子の利成にどうしていいかわからなかった。本当のところ翔太に心奪われてるのはそうかもしれなかった。翔太と話すと利成とはない高揚感と親しみが湧くのだ。
「切るから」と明希は言った。
「今までそう言って切れなかったんだよ?」
「・・・・・・」
「多分、明希は俺のこといつまでも誤解してるんだろうね。明希じゃなかったら最初の段階で切ってたよ」
「・・・・・・」
「わかる?この意味?」
「・・・・・・」
「多分だけど、夏目のことだからまだあの週刊誌のこと解決させてないんだろう?それこそ離婚しそうだとか?」
「・・・うん・・・」
「それで明希が責任感じてるんだろうね」
「・・・・・・」
「でも明希はもっと違うこと心配しなきゃ。わかる?どういう意味か?」
「・・・うん・・・」
「もう俺もそろそろいいかなって思い始めたよ」
「・・・・・・」
「ちょうどいいだろ?夏目が離婚したら」
「利成、ごめん。ほんとに心なんて奪われてないし、もう電話もメールもしないよ」
「そうか?でももういいよ。メールだろうが電話だろうがしたら?」
明希は困惑した。こんなに感情的な利成は今回が初めてだ。声音は穏やかだが、容赦ない気迫を感じる。
「もうしないよ」と哀願するような感じになってしまった。
「・・・・・・」
「ほんとごめん」と謝ったが利成は何も言わずに明希の横に横たわった。
「もういいよ。さよなら」と利成が背中を向ける。
(え?)と明希は利成の背中を見つめた。(さよならって・・・)
どうやら本気で怒らせたようだと悟る。でもなんと言っていいかわからない。翔太に心奪われてるといわれればそういうところはあったし。切れずにいたのも自分の弱さだ。
前に五日間口をきいてもらえなかった時を思い出す。またあの状況になったら今度はもう無理だろう。
「利成・・・心奪われてるって言われちゃっても仕方ない行動取っちゃってるよね・・・。でも翔太とどうこうなりたい気持ちは本当にもうないよ。だから全部切るから」
「・・・・・・」
「利成?」
「・・・俺はもう二人の邪魔はしないよ。好きにしたらいいよ」
「利成、ほんとにもう許して」
「・・・・・・」
「お願い」
「・・・困ったね・・・」と利成が背中を向けたまま言った。
「・・・・・・」
「考えてごらん?もう少し。どうすればいいかわかるから」
「利成と別れればいいの?」
「・・・考えてみて」
「別れることを?」
「明希、俺がどう思ってるか考えてごらん」
「わからない」
「考えてないでしょ?」
「わからないもの。利成がどう思うかなんて」と涙が出てきた。すると利成がようやくこっちを向いた。
「わからないよ。ほんとに。利成がどう思ったりどう考えてるかなんて。わかるわけない!」と明希は布団から起き上がって声を荒げた。
「・・・明希、しょうがないね・・・」
「・・・・・・」
「わかったよ。おいで」と利成が布団をめくった。
明希が布団に入ると利成が少し明希の方に身体を寄せた。明希は流れてくる涙を指で拭った。
「俺はね、そんなに偉くないよ?もっと明希も俺に本音を言って。夏目に言うようにね」
「え?」
「ちょっと聞いてたんだよ。明希が喋ってるの」
「ドアの前で?」
「そう、立ち聞き」と利成が少し笑顔になった。
「・・・・・・」
「正直、妬けてひどいこと言ってごめんね」
「妬けたって・・・?」
「俺と話すより明希がポンポンとものを言ってるから。俺にはいつもどこか遠慮してるでしょ?」
「そんなことないけど・・・」
「そんなことあるよ」と利成が髪を撫でてきた。
「私が利成に遠慮してるように感じるの?」
「感じるよ」
「じゃあ、そうなのかな・・・でも、悪い意味で遠慮してるわけじゃないんだけど・・・」
「悪い意味でも良い意味でも何でもいいけど、遠慮は寂しいよ」
「・・・ごめん・・・」
「明希・・・俺はそんなに何でもわかってるわけじゃないからね。明希の誤解だよ」
「でもそう見えるの」
「そうか・・・それは困ったね」と利成が少し切なそうな表情を作った。
「わざとだったの?さっきまでの言葉って・・・」
「そうだよ。やっとわかった?」
「だって利成がそんなことわざというわけないと思って・・・だからほんとに怒ってて別れようとしてるんだと思ったの・・・」
「”俺ならそんなことをいうわけない”って、そのフィルターが外れないとね。明希はいつまでも俺がわからないよ」
「・・・・・・」
「俺は単純なんだよって前に言ったでしょ?仕事の時はそれなりに容赦しないけど、明希とはまた別なんだよ?一緒にしてない?」
「・・・一緒にしてたかも・・・」
「そうでしょ?一度ついちゃったフィルターはなかなか気づけなくなっちゃっうからね」
「うん・・・」
「でもちょっとショックだな・・・」
「何が?」
「俺と話してる時より生き生きしてるから」
「そんなことないよ」
そう言ったら利成が明希に口づけてから言った。
「・・・そうだな・・・明希と今いるのは俺だしね」
「・・・うん・・・」
やっぱり自分の思い込みが利成と距離を作っちゃってたのかな・・・。