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オリファント子爵邸には誰一人として使用人がいない。それは、オリファント子爵が領地から得られる収益から、何から何までギャンブルに使ってしまうからだ。
わずかに余ったお金も身分の高い順番に、オリファント子爵夫人、ステイシー姉様、スザンナ姉様、シビル姉様と振り分けられて屋敷の使用人を雇うお金などこれっぽちもない。
しかし、それでも貴族として体裁を保てる生活をできているのは、使い勝手のいい出戻りの末娘、シャロンがいるからだ。
シャロンはほんの半年前まではこのリュガーノ王国の第二王子と婚約をしていたが、異世界から聖女が召喚され、聖女に魅了された王子はシャロンとの婚約を破棄して、聖女と結ばれた。
そんなわけで出戻ってきたシャロンはオリファント子爵邸に居場所はなく、シャロンの居場所であった王都の小さなタウンハウスもすでに売り払はれて無くなり、この屋敷の使用人用の一室がシャロンの居場所であった。
「ひぃ~、水が、つめ、たいっ」
体の震えに合わせて唇も震わせシャロンはそんな風に独り言を言った。
現在、家族全員分の洗い物をしているところだ。やはり冬場の洗い物は体に堪える。かまどに火を入れて厨房を温めたいところだけど、薪だってただではない。
ただではないものを勝手に使って無くなってお金をもらえなかったら買ってくることもできない、そうなるとどうなるか。
……う~ん。凍え死ぬよね。
テンポよく自分の思考に自分で答えを言って、シャロンは短い髪をくくった小鳥のしっぽのような金髪を震わせながら丁寧に食器を洗っていく。
すると、ガチャンと乱暴に厨房の扉が開いて、そこから豪奢な金髪をくるくるに巻いている美しい女性が出てきた。
彼女は豪華で刺繍のたくさんついたドレスを身にまとっていて、とても華やかな香水の香りがする。
「シャロン! お前昨日までに私の宝石全部磨いておいてっていたじゃないの!」
「あ……あ~」
ぷりぷりと怒った様子で、彼女はヒールの音をかつかつとさせながらシャロンに迫ってきた。
そしてその言葉を聞いてシャロンは、忘れていたような顔をしたが、しかし実のところしっかり覚えていた。
しかし、とにかく使用人がいないこの屋敷の事をすべてやるのは時間が足りない。
朝起きてから夜限界まで掃除洗濯炊事をしていてもまだ時間は足りない。なのでイレギュラーな事を頼まれるとそこまで手が回らないのだ。
「ごめんなさい、ステイシー姉様。今日中にはできるようにするよ」
「はぁ? それじゃ遅いわよ! 今すぐやりなさいよ!私にこんなに迷惑かけて、お前何様のつもりよ!」
「本当、ごめんなさい、でも洗い物をしておかないと次の食事の支度が━━━━
ステイシーの言葉に一生懸命に謝りつつも、シャロンは必死に手を動かしていた。それもこれもすべて、早く仕事を終わらせてステイシーの要望に応えるため。
しかし、平気そうに謝る妹にステイシーは唐突に怒りを沸騰させた。
「ッ、ぐ」
「何様だって聞いてんの!!」
思い切り振りかぶった平手打ちがシャロンの頬をはたいた。耳がじいんと変な音を鳴らして、頭がくらっとする。
びりっと頬が痛んで、長く伸ばしている彼女の爪で頬が傷ついたのだとすぐにわかった。
「大体お前ね、生意気なのよ、自分は王族と婚約していたってだけでそんなに偉いわけ? 今じゃそんな服着て、汚い手をしているのに」
「……ごめんなさい、ステイシー姉様」
手を止めて前掛けで水をぬぐう。たしかにシャロンは貴族らしからぬ下働きの平民が着るような服を着ていた。
それに、ここ半年で急に酷使されることになった手のひらは、酷いあかぎれだらけだ。
残り物以外を食べることを許されないので随分と痩せた。もしかすると今更社交界に戻っても誰もシャロンだとわからないかもしれない。
「お前みたいなプライドばかり高い女は、男に好かれないわよ?……ってあらごめんなさい、お前もう傷ものなのだから、元から誰にも見向きされないのだったっけ?」
「……うん」
決してシャロンはステイシーの事を見下してなどいないし、たしかに特殊な魔法を買われて第二王子の嫁にと望まれたが、一般の貴族からすると必要のない変な魔法だ。
それに比べてステイシーは器量もよく、華やかできちんとした魔法が使える。だからこそ尊敬こそすれ、見下したりしない。
しかし、自分より劣る女が、身分の高い相手と結婚する、その時点でステイシーのプライドを刺激していた。そして戻ってきたシャロンに一番きつく当たる。
つまりは嫉妬とひがみによってステイシーはこんな風にシャロンを詰っている。
シャロンはきちんと理解していた。だからこそ、何も言わなかった。何を言っても意味などないから。
「一度ほかの男と結婚間近までいった女なんて貴族の中では無価値同然。誰もお前のことなど見向きもしない、それなのにっ、こうしてっ」
ステイシーはいつもより機嫌が悪いらしく、シャロンの前髪を掴み前後に大きく揺らした。
「飼ってやってるんだから! もっと媚びて喜びなさないよ!!」
たしかに、シャロンは第二王子と結婚間近であったし結婚式の準備のための同棲も始まっていた。しかし体の関係などなかった。
シャロンの体はまだ清いままだ。しかしやはりこの姉にも、そして貴族社会にもそんな言葉は通じない。
「あっ、ありがとう、ございます」
「誠意が足りてないのよ! 本当に可愛くないわ! 」
「ありが、っございます」
頭をゆすられてくらくらとしてくる。必死に口にした言葉もステイシーの怒りを収めることは出来ずにまた何か怒鳴られた。
……目が回りそう。
忙しさにも、痛みにも、体をゆすられる感覚にもすべて。
一度、婚約していたというだけでも貴族女性の市場価値がぐんと下がる。さらには、婚約前の同棲をしていたとなると世間からはすでに傷もの扱いだ。
このオリファント子爵家にとってもお荷物であり、ここまで貴族として育てる為にかけたお金はすべて水の泡だ。交渉の材料にもならない女は打ち捨てられるか、安い労働力になるのが関の山だ。
「このごく潰し!」
その通りだと、シャロンは思った。しかし同意しただけではステイシーの怒りはまだまだ続いていて、結局小一時間そうしてなぶられたのだった。
昼に時間をロスしたことによって、シャロンは深夜とも明け方ともつかない時間までずっと宝石を磨いていた。
暗闇の中最低限の光で磨いたので綺麗になっているのかわからなかったが、やることはやった。
慣れた足取りで、使用人用の部屋にもどり灯りもつけず、着替えもしないままベットに倒れこんだ。
硬く布を引いてあるだけの簡素なベッドは冷たく寝心地がいいとはとても言えないがそれでも床で眠るよりはましだ。
それにどうせすぐに起きなければならない。
……やわらかいベッドで眠ると起きるのが大変になるから丁度いい……ね。
うんうんと納得してから、服の内側につけている。ネックレスを引き出した。
そこには宝石のついている指輪がつながっていて、小さな指輪は思い出の品だった。シャロンが持っている品物で、こうして前の生活を思い出せるのはこの指輪ぐらい。
これが高級品だったのならこれを売って何とか生きていこうと思えたかもしれないが、そこについている美しい空色の石には一本のひびが入りその価値を失っていた。
「……」
胸がなんだか苦しくて、暗闇の中、指でその日々を撫でる。辛くはないそう思うほかなかった。