もう一人のいじめられっ子
◇もう一人のいじめられっ子
ランチタイムが一段落した喫茶店で古田泰司は床を掃除していた。
ドアの鈴が鳴って妻の理子が入って来た。
「はいコーヒー豆。ここに置いておくね」
泰司は「ああ」と答えてモップで床を拭き続けた。
地元の大学で知り合った理子と卒業して結婚してからは二人で亡き両親から喫茶店を継いで商売していた。
収入が喫茶店と妻のアルバイトだけで家計は厳しく子供を育てる余裕もなかったので子供は作らないと決めた。
店の奥の事務室から出てきた理子はエプロンを着けながら、
「店番しておくからお昼にして」
と言うと泰司は「わかった」と答えてモップを片付けて奥に入った。
事務室には机と椅子とパソコンと大型冷蔵庫が詰め込んだように置かれていた。
泰司は自分の席でパンとペットボトルのお茶で昼食を済ませてパソコンの電源を入れてネットのニュースサイトを見た。
地元の今日の記事には里見中学校の自殺の記事はなかった。
「ごめん、記者の人が話を聞きたいって」
理子がドアを開けて言った。
泰司は「なんだよ」と立ち上がって店に戻った。
記者は新田和沙と名乗り名刺を差し出した。
「それで何を聞きたいのですか?」
泰司は名刺を受け取り訝しく和沙を見た。
「ええ、里見中の自殺の件で少し……」
「うちには子供はいないから学校の事は知りませんが」
「いえ。あの中学校で以前からいじめが行われていた噂を聞きまして地元の方なら何かご存知ではないかと」
(この女。何を調べているんだ)
泰司に警戒心が湧いた。
「そうですか。聞いた事はないですね。学校に直接訊かれてはいかがですか」
「簡単に話してくれると思いますか?傷を広げるだけですしね」
淡々と話す和沙の顔から泰司は目をそらした。
「その傷を広げる事を調べているのですか」
「ええ。こういう事件は子供達だけでなく大人の思惑も絡んで起きるものなんです」
「言っている事がわかりませんが……」
泰司は苛ついた口調で言うと和沙は軽く微笑んだ。
「気分を悪くしたのなら謝ります。私の知り合いが昔いじめられて自殺したのでつい感情的になってしまいまして……」
「ああ、そうですか。それはお気の毒に」
和沙の申し訳なさそうな態度に泰司の警戒心が緩んだ。
「でも何も知りませんから。すみません。お役に立てなくて」
「いいえ。どうもありがとうございました」
和沙は軽く会釈して店を出た。
「ふ~ん、随分熱心な記者さんね」
理子がテーブルを拭きながら言った。
泰司は「ああ」と答えて奥の部屋に戻った。
「新田和沙……と」
パソコンで検索したが特に目ぼしい情報はなかった。
(知り合いが自殺してむきになっていじめの自殺事件を追っているって考えてみれば何だか嘘くさいな。それならわざわざこんな田舎まで来ないだろう。その手の事件は都会ではいくらでもあるのになぜここを選んだのか……)
パソコンの画面を見ながら泰司は少し考えたが、
「やめた! 今度来ても答えなければいいだけだ」
と呟いて電源を切って店に戻った。
「おっとりしているようだけどなかなか用心深いわね」
和沙は手帳を見ながら人影のないアーケード通りを歩いた。
その晩──
「うわあ」
泰司は声を上げて目を覚ました。
隣のベッドには理子が寝息を立てて眠っていた。
「またあの夢か。くそっ」
息を荒げながら泰司は怒鳴った。
教室で博志から殴られたり裸にされた自分を見て見ぬふりをしていたクラスメート、遠くから軽蔑して笑っていたクラスメート、黙ってひざまずいている涼太、怒鳴る博志、涼太が転校して新しいクラスで生徒や教師から腫れ物のように見られた毎日……
涼太と再会してから泰司は度々悪夢にうなされていた。
「俺は悪くないのに何で……」
うなされて目覚めて言う言葉は決まっていた。
泰司は呼吸を落ち着かせて横になった。