優等生
◇優等生
「行ってきます」
「車に気をつけてね」
玄関から響く娘の由奈の声に台所にいた神田美晴が答えた。
「あ、お父さん。食べたら台所に置いといてね」
美晴は慌ただしく洗い物を済ませて居間でテレビを見ている父の隆史の後ろを通り過ぎた。
「まずい。ギリギリ」
独り言を呟き美晴は着替えて薄めの化粧をして早足で玄関を出て車庫の軽自動車に乗った。
そして運転席から少し前のめりに左右を見て「大丈夫ね」と呟いてハンドルをゆっくり右にきって走り始めた。
隣の市の高台にある電気会社に着いたのは30分後で車から降りるなり駆け足で会社に入り、更衣室で制服に着替えて事務所に入った。
「おはようございます」
美晴の挨拶に職場にいた数人の男女が気だるく「おはようございます」と答えた。
隣で女性社員達の賑やかな雑談が響く中で美晴は古いデスクトップコンピュータの電源を入れた。
使えるまでの数分間、美晴は引き出しから電卓や書類を出してペットボトルのお茶を一口飲んだ。
時々鳴る電話の音に混ざって始業のチャイムが鳴った。
職場に社歌が鳴り響く中、美晴は薄茶色に褪せたマウスを操作して無言でメールチェックを始めた。
伝票処理などをやっているうちに昼休みになり持って来た弁当を一人で食べてくつろいでまた作業をしているうちに終業のチャイムが鳴り会社を出る毎日。
社員から話し掛けられても淡々と答えて黙々と古い端末に向き合って作業する美晴を『ロボット』だの『つまらない女』だの陰口を叩く社員がいたが美晴は『所詮は田舎者』と聞かぬ振りで過ごしていた。
高校を卒業して東京の大学に進学、大手の電機会社に就職した美晴は同じ会社で営業の江口武彦と結婚して娘の由奈を産んだ。
しかし由奈の成長と共に育児の考え方で意見が衝突するようになり離婚、病気がちの父の隆史と同居する為に由奈と共に帰郷した。
東京で暮らして卒なく仕事をしてきた美晴にとって退屈な田舎生活に戻る事は不本意だったが母が他界していつまでも隆史を一人きりにするのは不安だったので仕方ないと帰郷を決断した。
子供から成績が常に上位で優等生と呼ばれ続けて上場企業に就職した美晴には初めて味わう敗北を感じながらの帰郷になった。
子供を連れて帰って来た美晴に父の隆史は冷たかった。
地元の役所で順調に出世して定年退職した隆史にとって出戻りの娘がいる事が認められなかった。
最初は名前を呼ばずに「おい出戻り!」と怒鳴っていたが時間の流れと共に名前で呼ぶようになった。
孫の由奈には仕方なく遊び相手になっていたがそれも時間の流れと共に表情が緩んでいった。
会社を出た美晴はスーパーの駐車場に車を止めて食材を買い込んで帰宅した。
「ただいま」
美晴が帰っても返事はなかった。いつもの事だ。
居間では隆史がテレビを見て由奈はテーブルで絵を描いていた。
「今日はハンバーグね」
美晴が台所に入って言うと由奈は「は~い」と答えた。
食材を置いた美晴は2階の自室で着替えて台所で料理を始めた。
その間も隆史は黙ったままテレビのニュースを見ながら時々新聞に目を通していた。