事件2
◇事件2
1ヶ月後、涼太は研修を終えて里見町に帰って来た。
週末、泰司の店へ向かう途中の道端で、
「あの、長沢涼太さんですか?」
見知らぬ少年に名前を呼ばれて涼太は、
「そうだけど何か?」
と答えた。少年はゆっくり近づいて、
「ごめんなさい!」
と言うとナイフで涼太の腹を刺した。
涼太は短く「うっ!」と叫ぶとその場にうずくまった。
「痛いっ! 助けてくれ!」
涼太は大声で叫んだ。近くを歩いていた男女が立ち止まって二人を見た。
「助けてくれ!」
もう一度涼太が叫ぶと男が三人駆け寄ってきた。
「どうしたんだ!」「血が出ているぞ」「救急車だ!」
涼太の頭の中に怒号が突き抜けるように響いた。
「しっかりしろ」
誰かの声で涼太が顔を横に向けると大人達の足の間から道端に立っている細い少女の足が見えた。
涼太の意識はそこで途切れた。
涼太は目を覚ました。病室にいた。何が起きたのか記憶を辿るうちに腹に痛みが走った。
目を大きく開いた涼太が「痛い!」と叫んだ。
看護婦が「大丈夫ですよ」と穏やかな口調でなだめると涼太は力を抜いてベッドに背中を沈めた。
病室に二人の刑事が来て涼太は事情を訊かれた。しかし涼太には思い当たる事はなかった。男が病室に入って来た。
「長沢……さん、この度はうちの息子が……すみませんでした」
男は深々と頭を下げた。
「誰だ、あんたは!」
涼太は怒鳴って男を見た。
「柳原博志です」
名乗った男の顔を見て涼太はハッとした。
「柳原! お前か!」
涼太は目を大きく見開いて大声で怒鳴った。
刑事と看護婦がベッドから立ち上がろうとする涼太を押さえた。
「お前、お前のガキが刺したのか!」
涼太は腹を押さえて怒鳴り散らした。
博志は黙ってうつむいた。
「そうか、俺が帰ってきたら面倒だから自分のガキを使って殺そうとしたんだな。相変わらず汚いクズな奴だな」
充血した目で涼太は博志を睨みつけた。
「落ち着いてください。傷が広がりますから」
看護婦の声は涼太に聞こえなかった。
「殺してやる!」
涼太は刑事達をはねのけてベッドから足を出して立ち上がった時、
「う、うわあああ。痛い!」
涼太は両手で腹を押さえた。掌を見ると血だらけになっていた。検査着の腹を見ると真っ赤に染まっていた。
「先生、301号室の患者さんが出血しました」
看護婦がベッドの上のナースコールボタンを押して話すとすぐに医師と看護婦が病室に駆け込んできた。
大声で喚きながら涼太はベッドに横になって治療を受けた。
「くそっ、このクソ野郎が! 覚えていろよ。絶対に許さないからな」
医師の指示で刑事と博志は病室から出て行った。
「許さないからな。痛い!」
医師が打った鎮静剤で涼太は叫びから呟きに変わりながら眠りについた。
「今日は長沢さん来なかったね」
喫茶店で食器を片づけながら理子が言うと泰司は「ああ」と床を掃除しながら答えた。
「メールで今日来るって言ってきたのにな。急用でもできたんだろう」
気に留めずに泰司はモップで床を拭き続けた。
友麻は自分の部屋でスマホの写真を見ていた。
数人の大人達の人だかりの横で立つナイフを持った少年──
涼太が刺された現場を通りかかってとっさに撮った太一の写真だった。その写真を撮った後、一瞬だけ友麻と太一の目が会った。
太一は泣いていた。
「何なの、あの子」
友麻は写真に映った寂しい表情の太一が気になった。
その晩、事件のニュースが流れた。
会社員が13才の少年にナイフで刺されたという程度で涼太の名前は出なかった。
傷は浅く涼太は2週間入院する事になった。
会社から1ヶ月の休職を言い渡されて涼太は承諾した。
「刺したガキ、ずっと不登校だったって」
「不登校か。意外と身近にいるんだな」
工場の更衣室で男達が話していた。
「へえ、そうなんだ」
智明も着替えながら話に入った。
「ガキは里見中だってさ。それで親はクリーニング屋やっているんだって」
背を向けてシャツを着ていた智明の指が止まった。
「矢野、何か心当たりないか」
男が智明に話し掛けた。智明は一息ついて、
「さあな。俺の知り合いにはいないなあ」
とシャツを着ながら答えた。
そしていつものように「お先!」と明るく言って更衣室を出た。
智明の顔がこわばった。
「まさか、あいつの家か……」
小さく呟いた智明は早足で工場を出た。
「だから大丈夫だって。もう本当に心配性なんだから。じゃあ切るね」
美晴は笑いながら武彦と話してスマホの画面を押して軽くため息をついた。
居間に入ると隆史がテレビを見ていた。
「由奈は宿題しているのか」
「ええ、そのはずよ」
美晴が答えると隆史は「そうか」と答えた。
「もう武彦さんたら心配性で疲れるわ」
「自殺の次は子供が刺す事件だから心配になるだろう」
「そうね。言われてみると確かに心配だわ」
「お前、意外とのんきだよな。そういう所」
隆史は呆れた。
「母親になるとやる事が多くて細かい事に気が回らなくなるのかな」
「そういう所、母さんにそっくりだな」
隆史はふっと微笑んだ。
「でも怖いわ。アーケード通りの近くだったよね。由奈に遊びに行かないように言っとくわ」
「刺した子の親はクリーニング屋らしいぞ。店の名前は聞いた事があったような」
「そう、気をつけるわ。ありがとう」
美晴は明るく答えて台所に入った。
流し台で食器を洗う手が止まった。
「あの辺のクリーニング屋ってもしかして……」
小声で美晴は呟いたがすぐに洗い物を始めた。
事件から3日後、涼太はこれ以上博志達と関わりたくないからと不起訴にする事にした。太一は送検扱いになった。
その2日後、博志と博志の両親と太一が涼太の病室に謝罪に来た。
「言っとくがお前を許した訳じゃないからな。これ以上面倒な事に巻き込まれたくないからだ」
「長沢さん、すまない……」
謝る博志に子供の頃の横柄な面影は一片もなかった。
「おいガキ、自分が悪く思われたら親父が悪く思われなくなるって警察に言ったそうだな。馬鹿なのか。お前のせいでここにいる奴らが不幸になったんだ。これからの事をちゃんと考えろよ!」
怒鳴る涼太に太一は黙って頷いた。
「長沢さん、色々すまなかった。昔の事も含めてな。俺がちゃんとこいつを見ていれば貴方は転校せずに済んだのに。あの時は親御さんにしか謝れなかった。ここで謝らせてくれ。本当にすまなかった」
博志の父の幸太郎が頭を下げた。涼太の拳に力が入った。
「そうだな。今でも許せない。俺と家族を引き裂いたんだからな。別にあんた達を許すつもりはない。それだけは覚えておいてくれ。もう帰ってくれ」
涼太がきつく言うと博志達は頭を下げて病室を出た。
静かになった病室で涼太は口をきつく結んで横になった。
「柳原の息子が親の同級生を刺したのか」
雅也は呟きながら水割を飲んだ。
「馬鹿の息子は馬鹿だな」
雅也は居間のソファにもたれて鼻で笑った。
「どうしたの。何か楽しそうね」
絵里香が雅也の隣に座った。
「いや、笑えない話だけどな。勝彦に悪い友達ができなければいいが、最近物騒な事件があるから」
「そうだけど、どうしたの?」
「いや、友達はちゃんと選ばないと自分の将来もダメにするからな。俺も親父からそう言われたよ。自分より能力のない人間とは付き合うなって」
「体育会系のお父さんらしいわね。それで私と付き合ったのはあなたのお眼鏡に叶ったのかしら」
絵里香は皮肉混じりに言うと雅也は、
「ああ、俺の弱い心も受け入れてくれたお前は俺より遥かに強いよ」
と絵里香の肩に手を回した。
週末の夕方、スーパーで智明と美晴が会った。
「何か嫌な噂が広がって大変だな」
「本当ね。柳原の子だってね。親も嫌な奴だったけど似たのかしらね」
「美晴ちゃん、あいつ嫌いだったからな」
「もう大っ嫌い。ちょっかい出してきたりして」
カートに食材を入れながら美晴はきつい口調で答えた。
「でもクラス替えの時の美晴ちゃんはカッコよかったな。教室で言い訳する柳原にパーンってビンタ一発入れたからなあ」
「そんな事あったわね。あの時は受験で必死だったからね。親を馬鹿にされて凄くムカついたのよ」
二人は笑いながら話した。
「でも刺した相手が転校して行った奴だったとはなあ。驚いたよ」
「長沢君か……小学校が同じだったけど久しぶりに名前を聞いたわ」
「会いに行けばいいじゃないか。家は知っているんだろ?」
「何で今さら行くのよ。もう何十年も前じゃない」
二人はしばらく談笑して別れた。
「あの、神田美晴さんですよね」
一人で買い物をしている美晴に女が話し掛けてきた。
記者の新田和沙だった。
和沙は名刺を差し出して挨拶をすると、
「この前の少年が起こした事件について少し話を聞かせて頂けませんか?」
と淡々とした口調で訊いた。
美晴は「特にお話する事はありません」と微笑んでカートを引いて歩いた。
「加害者の父親と知り合いですか?」
和沙が歩きながら訊くと、美晴は「いい加減にして下さい」と怒鳴って急いでカートを引いてレジに向かった。
美晴がレジで精算を済ませて袋を持って店を出るとまだ和沙がいた。
「あの、この前の事件を調べてどうするのですか?」
「もちろん記事にしますよ。タイトルは『呪われた町で起きた怪事件』ってところかしら」
「随分なタイトルですね。でも同じ町で事件が続いただけでそんな大げさに書いても誰も読まないでしょ」
美晴が軽く笑って言った。
「そうですか。出版したら真っ先に連絡します。お手数をかけました。それじゃ」
和沙は淡々と答えて会釈して立ち去った。
美晴は「何なの。あいつ」と和沙の後ろ姿を睨んで車に乗り込んだ。
退院した涼太は暇を持て余して泰司の店にいた。
「驚いたよ。まさかあいつの子供がなあ」
「すげえ迷惑。やってられないな」
涼太はコーヒーをひと口飲んだ。
「でも被害届は取り下げたんだろう? 普通は出来ないよ」
「面倒くさいのとあいつの顔を二度と見たくないからな」
「確かにあいつの顔は見たくないな。まあ向こうも負い目を感じてか店に来ないけどな」
二人が話していると店のドアが開いた。
「いらっしゃい……あんたか」
泰司の表情が曇った。和沙がテーブル席に座った。
和沙は「コーヒー」と言うとノートパソコンを開いた。
泰司は口をチャックで閉じる素振りを涼太にして食器棚からコーヒーカップを取り出した。
泰司がコーヒーを和沙に出すと、和沙はパソコンのキーを叩きながら「ありがとう」と答えて作業を続けた。
カウンターに戻った泰司は「ああ、今日はいい天気だね」と呟きながらコーヒーカップを拭いた。
涼太は振り向いて和沙を見た。
コンビニで会った時には気づかなかったが同じ位の年頃の女だった。
「私の顔に何かついている? 嘘つきな長沢さん」
「何だと!」
涼太は大声で怒鳴った。
「よさないか!」泰司は涼太をなだめた。
「だってこの町の人なんでしょ。いじめっ子の子供に刺された長沢さん」
和沙はノートパソコンに向き合ったまま無表情で言った。
涼太はひと息ついた。
「随分な言い方だな。あんた何者だ。まだ自殺の事を調べているのか」
「ちょっと違うわね。でも安心して。別にあなた達に迷惑をかけるつもりはないから」
和沙はコーヒーを飲みながら涼太を見た。
「なあ、何で余所者のあんたがいつまで嗅ぎまわっているんだ。みんな片田舎に住んでいる普通の奴らばかりだぞ」
泰司はコーヒーカップを置いて穏やかな口調で訊いた。
「そう思うなら別に構わないわ。私は調べたい事を調べているの」
和沙は小声ながら強い口調で答えた。
「あんた、何を調べているんだ。自殺した子の事か? 俺の事か?」
涼太は怒りを鎮めて訊いた。
「あなたの事は調べたわ。だけどそれが目的じゃないって事だけ言っておくわ。ごちそうさま」
和沙はコーヒーを一気に飲み干してノートパソコンをカバンに入れて立ち上がるとカウンター横のレジに歩いた。泰司もレジに歩いた。
すぐ横で精算する和沙を見て涼太は、
「もしかして俺と昔どこかで会った事があるのか?」
と訊いた。
和沙は「いいえ、ないわ」と淡々と答えて精算を済ませ「さっきはごめんなさい」と軽く会釈して店を出た。
「何だ、あいつ……」
涼太は小声で呟いた。
「ズケズケ言う奴だけど何だろうな。何か背負っている感じだよな。よくわからんが」
泰司はコーヒーカップを片付けながら言った。
「背負っているか……」
涼太は和沙に自分とどこか似た棘を感じた。