帰郷
◇帰郷
晩秋の冷たい風が吹き抜けるアーケード通りは閑散としていた。
この里見町に人が集まる場所といえばチェーン店のファミレスと有名なカフェと大型スーパー位だ。
人通りが少ないアーケード通りが賑わうのが年に一度の祭り位である。
この寂しい通りにも沢山の人が行き来していた時期もあった。
大手の百貨店が店を構え、楽器屋やおもちゃ屋などが並んで人々が行き来していたのはもう20年前の事だ。
それから住宅街が北部の絵菊町に出来てから自然とそちら側が発展していき里見町の商店街は廃れていった。
そんな町に中年の男が帰って来た。
男の名は長沢涼太――
涼太にとってこの町には良い思い出がない。
中学生の時にいじめられて学校に行かなくなり転校して親戚の家から学校に通った。
転校してから普通の学校生活を過ごしたが孤独な気持ちをずっと抱えていた。休みの時は実家に帰っていたが一歩も外に出なかった。
そして公立の高校に進学、そして大学へ行った後に東京の電気会社に就職した。
人付き合いが苦手という訳ではないが恋愛はうまくいかず独身のままだった。
そんな中、両親が事故で亡くなった。
会社では課長に就き順調にキャリアを積んでいた矢先の不幸だった。
兄弟はおらず一人っ子という事で親戚からの説得で退職して実家に戻る事にした。
両親の葬儀や事後の手続きを済ませて涼太は隣の市の食品工場に勤め始めた。
職場には中学時代の同級生が数名いたが声を掛けられる事はなかった。
涼太は覚えていても相手は忘れているのか、それとも他人の振りをしているのかわからない。
だが涼太にとっては忌まわしい思い出に触れなくて済むので都合が良かった。
都合の悪い思い出なんてすぐに忘れるものであり触れられたくないのは当然の事だろう。誰もがいちいち遠い子供時代の事を覚えてずっと生きている訳ではないのだから。
東京で過ごした涼太にとって何もないこの町は不便で退屈だった。
一番近いコンビニは車で10分位の場所、電車は1時間に2便、大きな家電店は1店、ファストフードはメニューも席数も少ないドライブスルーが数店、繁華街は小さな居酒屋にスナックばかりで東京にいた時によく行っていた大手の居酒屋チェーン店はない。
不便な町と嫌な思い出を抱えながら一人で一軒家に暮らす涼太は退屈で仕方なかった。
週末、暇つぶしにアーケード通りを歩いた。
懐かしい店があるが大半はシャッターが下ろされていた。
そんな中、何気なく雑居ビルの2階にある喫茶店に入った。
「いらっしゃい」
涼太と同じ年頃の髭を伸ばした男がカウンターに立っていた。
店には客はいなかった。
涼太は入口寄りのテーブル席に座ってメニューを開いた。
男が水とおしぼりを持って来た。
涼太は「コーヒー」とだけ答えてメニューを置いた。
店の中は懐かしい歌謡曲が流れていた。
男がコーヒーを持って来た。
「お待たせしました」
男が静かにコーヒーを置いている間、涼太は店の中をゆっくり見渡した。
「お客さん、この辺の方ですか」
男の問いに涼太は「まあ」とだけ答えた。
「あの、ひょっとして長沢さん……ですか」
男が訊くと涼太は「えっ」と男の顔を見た。
「えっと……誰?」
涼太は不愛想に訊くと男は微笑んで、
「古田、古田泰司です」
と答えた。
「古田……」
涼太の記憶の中に少年の顔が思い浮かんだ。
「ああ、古田君」
「どうも、久しぶりです」
お互いに敬語を使いながら挨拶した。
古田泰司。涼太と同じ中学校のクラスメートだった。
泰司は涼太と同様にいじめられていた。
「元気にしていたか」
涼太が訊くと泰司は「まあ」と小さく呟いた。
「長沢君も元気そうで良かった」
「ああ、まあな」
泰司の問いに涼太は言葉少なく答えた。
「会うのは転校して以来かな」
「そうだな。こっちには時々帰って来たがずっと家にいたからな。あのクズな学校の連中と会いたくなかったし」
涼太は笑いながら答えると泰司は苦笑した。
「本当クズな学校だったな」
「ああ、先公も生徒もみんなクズ」
「全くだ。長沢君が転校した後、俺はよそのクラスに移されてな。それからいじめられなくなったけど俺は腫れ物扱い」
「そうだったのか。臭い物に蓋をってやつか。全くつくづくクズな学校だな。思い出しただけで吐き気がする」
涼太は苦笑して言った。
それからしばらく二人は談笑した。
「そうか、それで戻って来たのか」
「ああ、ツイていないと言うか仕方ないと言うかそういう事でたまに来るかも知れないけどよろしく」
「ああ、見てのとおり寂れた店だけどな。いつでも来いよ」
「それにしてもこの辺は変わったな。こんなに人通りが少なかったか」
涼太はコーヒーを飲みながら訊いた。
「みんな絵菊町で出店しているよ」
「大変だな。客は来るのか」
「ああ、昼間は商店街の連中が休憩がてらに来るし、友達もたまに来るぞ」
「へえ、中学の時の奴もか」
「それはいないな。高校の時の友達位かな。役所に勤めている奴とか」
「とにかく元気で良かったよ。じゃあ帰るわ」
涼太は立ち上がって勘定を済ませた。
「それじゃ」
泰司に手を振って涼太は店を出た。
外は相変わらず閑散としていた。
「泰司、変わったな……人の事を言えないか」
涼太は背中を少し丸めて家路についた。
帰宅してから涼太は自分の部屋に入り子供の時のアルバムを開いた。
アルバムは家に置いたままにしていた。
卒業アルバムは持っていないが、当時の中学時代の写真は貼ってあった。
市立の里見中学校に入学してから2年生の文化祭までの写真がアルバムに貼ってあった。
最後の写真が貼ってあったページを見て涼太の目つきは懐かしさから憂鬱さが溢れた。
3年生のクラス替えの後からおとなしい涼太と泰司はいじめの標的になった。
殴られたり裸にされたり休み時間と放課後になると涼太は人間としての感覚を失っていた。
ただただ相手にされるがまま、恥ずかしさも痛みも心のどこかに消えて最初の頃に流れていた涙も流れなくなった。
このまま卒業まで我慢すれば何とかなると思っていたが夏休み前に体に異変が起きた。
朝になると強い吐き気を催し、意味もなく涙が流れた。
その日々を繰り返し心配した両親が涼太を病院に連れて行った結果、ストレスによる鬱性の症状があると診断された。
この時、涼太は初めて両親に学校でいじめられている事を告白した。
両親は一瞬言葉を失った。
その時の両親の困惑した顔を涼太は今でも覚えている。
まるで他人を見るかのような目、見下したような表情、憐みを感じない両親の表情に涼太は孤独を感じた。
学校を休み、病院に通いながら夏休みを過ごし、両親と学校側と話し合って隣の市の学校に転校する事になった。
転校したいと言い出したのは涼太からだった。
いじめられるのも嫌だったが、両親と一緒に暮らすのも嫌になった。
そして十月から隣の市にいる親戚の家から通う事にした。
「このクソ野郎共が!」
涼太が当時を思い出す度に吐く言葉はいつしか口癖になっていた。
涼太はアルバムをパタンと音を立てて閉じて押し入れの中に放り込んだ。
「ああ、こんな田舎でくすぶって生きていくのかよ! シケた人生だな! クソが!」
大声で怒鳴って涼太はベッドで横になった。
翌日、涼太は食品工場に出社していつも通りに梱包作業をやっていた。社員が無言で淡々と梱包している職場で涼太もまた黙々と作業を続けた。
現場には涼太を含めて男2人と女3人、女の中に涼太の中学の時の同級生がいた。しかし挨拶以外に話す事はなかった。
田舎の職場だと人間関係が濃いと涼太は思っていたがパート社員の出入りが激しい職場で誰も余計な事は話さない淡々とした環境は涼太にとっては意外だった。
「長沢さん、ちょっといいですか」
人事担当の牟田啓介が作業をしている涼太に小声で話し掛けた。
涼太は牟田と作業場のそばの小さな会議室に入った。
新しい職場に慣れたかだの職場環境についてどう思うかと言った定期的な聞き取り調査だった。
「それじゃ作業に戻ってください」
牟田の穏やかな口調の指示に涼太は「はい」と答えて作業場に戻った。
終業のチャイムが鳴った。
作業場の社員達が一斉に後片付けをして更衣室べ向かった。
涼太も更衣室のロッカールームで着替えを済ませて裏口から会社を出た。
そして駐車場に置いた白い軽自動車に乗り込んで敷地を出てコンビニで食料を買い込んで帰宅した。
東京の会社に勤めていた時も殆ど会社と自宅の往復の毎日だったが自ら望んでいない帰郷と転職に涼太は時々苛立っていた。
不思議な事に実家に帰ってから東京の生活を思い出す機会が減り、その代わりに子供の頃の記憶が次々と浮かんで夜はうなされるようになった。
淡々と暮らしながらも怒りの炎が静かに込み上げる気分になり涼太は時々不安になった。
コンビニで買った弁当をレンジで温めて面白くないテレビを見て食事をしてスマホでニュースをチェック、その後は入浴してビールを飲みテレビを見ながらダラダラとスマホをチェック、そして部屋のベッドで23時に就寝、そしてうなされる……
東京で住んでいた賃貸のマンションと比べて一軒家は広いが一人で住むには広すぎてテレビの音が妙に響く家の中は冷たさも感じて涼太には快適な居心地とはいえなかった。
そんな不機嫌な涼太の一日がまた始まった。