涙を拭う
「何、突っ立ってんだよそんなところで。帰るぞ」
「あ、うん。そうだね」
ことの衝撃が受け止めきれず、頭を悩ませているとトイレから帰ってきた東雲君に声をかけられて我に返る。
かえったところで状況は変わってない。
あの浅間君の言葉を、嘘だとは決して思えなかった。
「ん? 何かあったん?」
「ううん。なんでもないって」
怪しまれてしまったので、慌てて否定する。
誰にも言うなと、言われた。多分彼は、どこかでまだ僕のことを見ている。見えなくても、そんな気がする。
多分とか、きっととか、そんな曖昧なものばかりだけど、さっきから背筋を襲うこの寒気がプレッシャーが、その感覚が間違い無いと断言していた。
「なら早く行こうぜ、もう次の競技始まっちまうぞ」
「つ、次の競技って?」
「女子の借り物競走だよ。入場門に集まってるだろ」
そう言われ、入場門の方を見ると確かに整列している。
ということはと得点板の方を見ると、既に100メートル走の結果が反映されていて、僕たち2組の連合チームは下から3番目。
1位とはざっくり、300ポイントくらい離れている。
それがどれほどの差かは、それぞれの競技で取れるポイントとか知らないため不明だったけど、簡単に覆せるような差ではないことだけ確かだった。
(……や、やばい)
早いうちに何か対策を取らないと、勝ち目が完全に無くなる。そうなれば、多くの人が……死ぬ。
未だにその言葉に、実感が湧かない。
それを現実として、受け止めれてない自分がいた。
(頭を、切り替えろ!)
今から考えるべきは、どうやって優勝させるかということ。
彼の暴挙を止めるには、彼が提案したルールに従うしかない。
最初の100メートル走で遅れをとってしまったものの、幸いまだ競技は始まったばかり。
せめて、次の借り物競走では1位をとってもらわないと。
(でも、どうする!? もう時間はない!)
そうこう悩んでいるうちに、次の借り物競走へ出場する生徒の入場が始まってしまった。
こうなったらもう、お題の紙に細工をするのも不可能。
ただただ、運に天を任せるほかなかった。
「頑張れー!!」
「メガネとかなら、あるからねー!!」
他のテントから多くの声援が飛ぶ。勿論、ウチのテントからも。ただ、その中で誰よりも僕が応援している自信がある。
「おい、食いつきすぎだろ」
東雲君にそう言われても仕方がないぐらい、僕は競技場所と観客席を仕切るロープに寄りかかって、しっかりとクラスの女子の動向を見守っていた。
当たりを引けー、当たりを引けー、と念じながらじっくりと見ていると、ウチのクラスの女子が走ってこっちにやってくる。
その動きに迷いはない。お題は、わかりやすいものだったらしい。
「アスナー! 何々? お題は何なの?」
「えーっとねー、彼氏」
「え? アスナって彼と別れたとか言ってなかった?」
「そう! だからさー、誰でも良いから今だけでも私の彼氏になって欲しいんだけどー。誰かいない?」
こ、これは……!?
いや……間違いなくこれは、当たりの部類。わかりやすい方!
心の逡巡をかなぐり捨てる。
そうだ、何を迷う必要がある。男子は誰も立進んで候補をしようとはしていない。そうだ! 怯える必要なんて、どこにもない!
「ぼ、僕がなるよ」
辺りに満ちる静寂。
何人かは、いや大多数は僕に引いてる目を向けてくる。
心を無にしろ、耐えろ耐えろ耐えろ。早く返事をしろ、何でも良いからこの地獄を終わらせてくれ……っ!!
「いや、釘抜は良いわ」
ああああああーーーーー!!!!!!!
身体中を怒りの感情が駆け巡る。心のうちに、留めることなんてできないほどの激情が、身体を貫いた。
誰でも良いって何だよ! こっちだって好きで立候補なんてしてない! そもそも、君が立候補されるような人間であったら何も問題はなかったんじゃないか!!!
いつの間にか、相手を批判するような言動を心の中で浮かべていたが、それは追撃のように小声で『キモッ』と言われたことにより、お相子になっていた。
更なる沈黙が辺りに広がる。クスクスという女子の笑い声さえ、僕の耳に届いてきた。
単なる生き地獄だった。
「あー俺、俺で良いなら良いけど」
「えー! まじ!? ありがとう東雲君!!」
そんな僕を助けるかのように、自分の気持ちを押し殺してまで彼氏役に立候補してくれる。
その優しさに、涙さえ溢れそうだった。
中谷さんは、僕のときとは正反対な態度で喜びを表し、嬉しそうに東雲君の手を引っ張っていく。
残された僕はと言うと、多くの好奇の視線に晒されながらも、その視線から逃れるようにテントの後方へと下がっていく。
勿論、そんな僕に声をかけてくれる人なんていなかった。
結局、彼氏選びに戸惑ってしまったせいか、8クラス中5位という勝てる勝負で微妙な戦績で終わってしまった。
◇◇◇
もはや、どうすることもできないと思い、その借り物競走が終わるまで、僕はクラスのテントから逃げるように離れた。
きっと、僕が去った後では中谷さんの友達が中心となって、僕の陰口を叩いていることだろう。
それを思うと、無性に胸が痛くなってしまう。
僕の浅慮だったとは言え、あれがあの時の最適解だったはずなのに、それを伝えれないことが一番きつかった。
「あれ? 釘抜君。なんでこんなところに?」
テントから逃げている途中、会いたくない人に会ってしまう。
「……斎藤さん」
「速くテントに戻ろ。外、暑いしさ」
厚意から伸ばされる手を掴めなかった。今、テントに戻ることだけは何がなんでも避けたかった。
「ごめん。テントには戻れない」
「………なんで?」
「っ!! それじゃ」
立ち去ろうとする僕の腕をガッと掴む。その力は強く、彼女の感情が昂っているのを感じた。
「何か言われたの?」
「…………」
「わかった。私がなんとかするから」
過去の経験から何かを感じ取ったのだろう。僕のその反応に、覚悟を決めたような目を斎藤さんはした。
「待って待って。わかった、一緒に戻ろ」
その覚悟を読み取って、僕は慌てて止めに入る。
このまま、ほっといていたら斎藤さんは僕のせいで、前の学校での生活の二の舞になってしまう。
その確信があったから、一人にできなかった。
それで例え、自分が傷ついたとしても。
「あ、やばいやばい。あいつ帰ってきたって」
「え、やば!? 今の聞かれてたかも」
予想通り、テント内は僕の悪口で盛り上がってたみたいだ。僕が帰ってくるやつ否や、シーカーでなくても聞こえるような声で、わざとらしく慌て始める。
その輪の中には、帰ってきていた中谷さんの姿もあった。
こっちを見ては、またクスクスと笑っている。
こういうノリの一番悪質なところは、本人たちも既にバレているのを分かった上で、まだ隠し通す体で自分たちがいることに、楽しさを覚えていることだと思う。
そして、最悪なことに中谷さんもこのクラスでまあまあ発言力があったりするわけで。
大半の女子が、僕に否定的な目を向けていた。
九谷さんはその輪には入っておらず、近藤さんの姿はもとよりいない。そこもまた、僕の運が無いところだった。
近藤さんは僕のことを嫌ってるだろうけど、こんなネチッこい嫌い方はしてこない。
むしろこんな女子たちを抑え、クラスのストッパーとして潤滑油的な役割を強いられていたぐらいだから。
近藤さんを含む男子数人は、その光景に面白くなさそうな顔を浮かべていて。
僕が嫌いな男子を筆頭にするそれ以外は、女子と同じように否定的な目を向けてくる。
「あー、斎藤さんさ。斎藤さんの彼氏(笑)がさ、さっき中谷に告白してたぜー」
「やめなって、斎藤さん可哀想でしょー」
遂には、直接的に言及してくる。
女子の方はそれに乗っかって、僕のことを思いっきりストレスの吐き口にしていた。
取り敢えず、一つ言いたいのは。
一番可哀想なのは、僕か君たちのどっちかってことだった。
「なー、軽蔑したっしょ? 詩織ちゃん」
「あんた、馴れ馴れしすぎー!」
そこでまた一笑いが起きる。も、斎藤さんの顔はピクリたりとも笑っていない。
「どうどう? すぐ他人に告白するような彼氏。詩織ちゃんなら、どう思う? 聞かせてよ」
「………正直、軽蔑した」
「あっはっは! 釘抜、振られてるしっ!!」
「当然っしょ、当然!」
口元を歪ませながら、斎藤さんは言う。
僕は本気で後悔した。
斎藤さんに、こんな顔させてしまうなら、あんなお願いなんてしない方が良かったのに。
ただ、この状況を正しいと感じてしまっている自分もいる。
斎藤さんは一人になるべきじゃない。クラス内での地位は、断固として守らなければいけない。
僕のせいで彼女の高校生活を、台無しにして良いはずがない。
そう思っているからこそ、今にも怒り出しそうな斎藤さんのことを、必死に抑える。
そういう約束をした、斎藤さんとは。『僕の悪口を言われたとして、絶対に怒らない』っていう約束を。
結局その異常な空気の空間は、借り物競走の次の競技が始まって、皆んなの興味が僕から移る頃まで続いていた。
◇◇◇
気持ちを切り替えないと。
今の僕を、イジる標的とする時間は後、1ヶ月ほど続くかもしれないけど、それでも1ヶ月。
そんな短い期間の話は、どうでも良い。
大事なのは、ウチのクラスが優勝することなんだから。
借り物競走の1年、2年、3年の部が終わり、借り物競走での他の学年の予想外の健闘もあってか、順位は上がっている。
ただ、一位との点差はまだ存在している。
このペースで行けば、届かないほどに。
『次の競技は、男女混合による障害物リレーです』
そうアナウンスが鳴ると、入場門から生徒が入場する。
さっきの競技よりは、介入しやすそうだと思った。
「お! 林いた! あいつ、メッチャ緊張してね?」
「もっと、肩の力抜けー!」
全員切り替えが速く、もう応援へとシフトチェンジしていた。
当然、僕もシフトチェンジする。
多くの人の命がかかっているから。
あの子たちは、上手くやれてるかと心配する。
唐突すぎて、借り物競走では何も用意ができなかったけど、障害物リレーは既に少女たちへの根回しは済んでいた。
リレー競技は得点が2倍。
なんとしでても高順位を取ってくれと願いながら、僕は熱心にグラウンドの方を見ていた。




