第一話 正太の事情
「水族館、楽しかったね」
「...そうだな」
8月31日の日曜日、夏休み最後の日、俺は朝から隣の県に新しく出来た水族館へ高校のクラスメート伊集院栞と出掛けていた。
今回、俺達は二人。
当然だ、最初から二人だけだったから。
「そういえば正太の住んでた街って、この沿線沿いだったよね?」
「そうだけど、良く知ってるな?」
「まあね」
意外だ、俺が4年前まで住んでいた街の話なんかクラスの誰にも話した記憶が無い。
ましてや伊集院に話す訳が無い。
彼女は俺の彼女では無いのだ。
今、こうして並んで椅子に座っている姿は恋人同士に見えるだろう。
しかし俺はクラスの女子から聞いたんだ。
伊集院が罰ゲームで俺に告白した事を...
「ねえ、行ってみない?」
「はあ?」
伊集院の言葉に思わず声が荒くなる。
この町に引っ越してから大人しい学生を演じていたからな。
もっとも、あの時から服装も含め、素の自分に戻っているが。
「お願い、正太の育った街を見ておきたいの」
「嫌だ、ふざけるな」
「酷い...」
「分かったよ!」
泣き真似をするな!
車内の人が見てるじゃねえか!
「うしっ!」
小さなガッツポーズを決める伊集院。
やっぱり嘘泣きか...我慢だ俺。
後2ヶ月でバカげた恋人ゴッコが終わる。
あの時クラスの女達から聞いたんだ、
『伊集院は2ヶ月後に俺を振って笑い者にする』とな。
女達の話を聞いた俺は伊集院に迫った。
『ふざけるな!俺はお前のオモチャじゃない』と。
伊集院は慌てて俺に言った。
『嘘よ!
あの子は、自分達が正太に告白する気だったのを私が先に告白したもんだからそんな嘘を...』
必死に言い訳をする伊集院だが、俺は信じる事が出来なかった。
仕方ない、染み着いてしまった人間不信は簡単に拭えない。
『それなら残り2ヶ月だけで良いから、ちゃんと私を見て。
それでも私を信じられないなら諦めるから』
その言葉に俺は伊集院との付き合いを続ける事となった。
どうして了解したのか自分でも分からない。
まあ良い、結論は変わらないだろうし。
「どうしたの、もう着くわよ?」
「そうだな」
いかん、つい思い出してしまった。
しかし俺の変化に何も思わないのか?
あの日以来デートの誘いはおろか、メールやラインの連絡も俺からしなくなったのに。
「変わらないな」
4年振りに降りた駅、当たり前だが変化は無かった。
しかしここに住んでいたのは遠い昔の気がする。
夜逃げ同然で引っ越したからだろうか?
「へえーここが正太の産まれ育った街?」
「ああ、13歳までな」
「...4年前か」
なんだよ伊集院、その目は?
俺の事なんか興味ないだろ。
「行くぞ」
「待って!」
気分が悪い。
でもせっかく来たんだ、じいちゃん達が住んでいた家を一目だけ見て帰ろう。
俺達家族が住んでいたマンションの部屋は借金のかたに取られた。
セキュリティがしっかりしたマンションだった。
今は他人が住んでいるだろうから、近づく事は出来ない。
だが、じいちゃんの実家は伯父が相続したのでこちらは今もある筈だ。
いけすかない伯父だった。
自分の借金には親父を頼り、殆ど返済しなかった。
それなのに親父の借金にはビタ一文貸さないばかりか、俺達家族を乞食呼ばわりしたんだ。
あの恨みは忘れない。
駅前の繁華街を抜けると少し寂れた裏通りに出る。
そこにじいちゃんの実家があるのだ。
じいちゃんの家は代々の名主を務めていた、
実家の建物も100年を越える古民家だった。
もっとも古いだけで、指定を受けていた訳じゃない。
「あれ?」
「どうしたの?」
「...無い」
「何が?」
「じいちゃんの家が」
思わず伊集院に言ってしまった。
しかしそれどころでは無い。
無いのだ。
白壁の塀も、長屋門も、目印だった庭の松も。
「間違って無い?」
「間違う訳ないだろ!」
声を荒らげてしまう。
こんなバカな?
周りはなんら変わってないんだ、家だけが無いなんて...
「...嘘だろ」
「ねえ正太、ここって...」
携帯の住所検索に番地を打ち込み、示された場所で立ち尽くす。
こんなバカな事ってあるのか?
「...ラブホテル」
さすがの伊集院も言葉を失っている。
「...糞伯父め」
「伯父?」
「なんでもない」
あの糞野郎はじいちゃんの実家を潰し、ケバケバしいラブホテルを建てやがったのだ。
売り払ったのか奴等が作ったかはどうでも良い。
もうここに用は無い。
死んだじいちゃん、ばあちゃんと過ごした想い出全てが無くなってしまった。
「行くぞ」
「うん」
いたたまれずラブホテル前を立ち去る。
やっぱり来るべきじゃなかった。
きっと父さんや母さんは知っていたんだ。
だから一度もこの街に帰りたいと言わなかった。
「止めて!!」
「は?」
「何?」
突然聞こえた女の人の声、なにやら切羽詰まってる様子だ。
「なんだよ、せっかく連れて来てやったのに」
「ふざけないで、私は正太に関する物が見たいって言ったのよ」
「だから来たんじゃねえか」
なにやら言い争っている男女がいる。
女の声に嫌な予感がした。
「ねえ正太の知り合い?」
「いや」
足早に立ち去る。
面倒事はごめんだ。
「でもあの人、正太って言ったよ?」
「聞こえなかった」
本当は聞こえたさ。
だが、もしあの人なら会いたくないんだ。
「助けて!」
「バカお前!」
女は俺達に叫んだ。
不味い、実に不味いぞ。
男は女の腕を掴み強引にラブホテルへ入ろうとする。
他に人は...俺達だけか。
「やめろ!!」
気づいたら俺は男の腕をネジあげていた。
「なんだテメエ...お前、もしかして正太か?」
呻きながら男が呟く。
コイツにも会いたくなかった。
「嘘...正太なの?」
呆然としながら女も呟いた。
「人違いだ」
「待って正太!!」
男の腕を放し、伊集院を置いて走り去る。
もう限界なんだ!
糞伯父の息子、従兄弟の山口昌夫。
そして俺の初恋の人、川合由美香。
絶対に会いたくない二人だった。