第02話 堕ちた天人と交わる世界
「はぁ…!はぁ…っ!!」
太陽の光が届かない、鬱蒼と茂る森の中に一人の少女の姿があった。
およそ森の中を駆けるのに適していない煌びやかなスカートは、真っ黒な泥と植物に塗れていた。
最高級の素材で仕立てられたドレスは今や見る影もないが、大きな力を想起させる華美なアクセサリの数々は、彼女の地位を象徴していた。
「どこまで…逃げればいいの…!」
ひざ下まである編み上げのブーツには無数の切り口ができているが、彼女は走るのをやめなかった。
空は赤黒く厚い雲に覆われ、草木や地面は黒い根に侵食されている。
一目で、ここが『魔王』のテリトリーだとわかる。
ここにいるうちは、奴らは絶え間なく追いかけてくる。
彼女は、最後に休んだのがいつだったのか思い出せない。
だが、テリトリーの終わりは見えない。
「ここを出ないと…!どこまでも追いかけてくる…!」
右に左に、草木を避けながら暗い森の中を滑るように駆け抜ける。
一見すれば普通の少女が見せるその速さと身のこなしは、彼女が『人類』ではないことを表していた。
「くっ…!」
前方に大きな川が見えた。
その水は真っ黒に濁り、近寄るのを躊躇わせる。
泳いで渡るのは危険に思えた。
「何とか、やり過ごさなきゃ…。」
河原には、身を隠せる大きさの岩がたくさん転がっている。
意味はないと知りながらも、彼女は大きな岩の陰に隠れた。
「お母さま、お父さま…。」
勝手なことをしてごめんなさい。
彼女はこれまで何度も何度も、自分の行いを後悔した。
裏庭に空いた『穴』の噂を聞きつけた彼女は、好奇心のままに自室を飛び出した。
危険だから絶対に近寄ってはならないと、両親にあれほど聞いていたのに。
『穴』は魔物のようにその口を大きく開け、彼女が来るのを待ち構えていた。
無防備にも淵まで近寄った彼女は、崩れる地面に足を取られ、滑り落ちてしまった。
次の瞬間、彼女の視界に入ったのは遥か彼方の地上世界。
『天ノ國』から落ちた彼女には、もはや故郷へ戻る術はなかった。
幸運にも、身に着けているペンダントのおかげで無事に地上まで降りることができた。
しかし、その先に待っていたのは終わることのない逃走劇だった。
「誰か、助けてください…。」
彼女は、弱弱しく呟いた。
『天ノ國』は魔王の出現を察知すると、天界と地上を繋げる全ての『門』を破壊した。
地上の同胞を見捨てる短絡的な施策も、徹底した合理主義である『天ノ國』にとっては当然のものだった。
地上にいる自分に、救いの手は差し伸べられない。
彼女は、そのことをよく知っていた。
なぜなら『門』を破壊したのは彼女の両親による指示だったから。
母国へ帰ることも叶わない上、不眠不休で走り続けた彼女は心身ともに限界に達していた。
彼女は座り込んだまま、『天ノ國』の神器であるペンダントを握りしめる。
彼女は『天人』の第一王女、ティエラ=メリー=ホロスフィアだった。
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「また暗闇か…。」
紗希が姿を消した光の中に滑り込んでたどり着いたのは、またしても闇に包まれた空間だった。
上から滴が頭に落ちてくる。水は冷たく、夢を見ているのではないと知る。
先ほどとはうって変わって、地面はゴツゴツしており、壁や天井も迫っている。
「今度は洞窟か?なんでこんなところに…。」
空気はひんやりとしており、雫の垂れる音が不定期に聞こえる。
目が慣れてくると、洞窟の所々に青白く光っているものが見えた。
「これはコケだな…、ヒカリゴケ?って言うのか?」
近寄ってみると思ったより明るく光っている。
神秘的な白色が京の体を照らした。
コケは洞窟内に点在し、移動に支障がない程度の照度をもたらしていた。
「とりあえず、ここを出ないと。」
意を決し足を踏み出す。
疲労は溜まっているが、紗希を探して帰らなければならない、という強い意思が彼を動かす。
濡れた手を撫でる風が吹いてくる方角へ向かい、ゆっくりと歩き始めた。
歩いて少し経つと、広い空間に出た。
光るコケのおかげで全貌がうっすら見える。
「テニスコートくらいは入りそうだな…。」
声が空間に反響する。
ふと、床に何かが散らばっているのが見えた。
「これは木材に…布か?どうしてこんな所に…。やけに生活感があるな。」
辺りを見渡すと、ついこの間まで人々が生活していたかのように、人工的な道具が散らばっている。
壁に目をやると、コケが照らす部分に文字らしいものを見ることができた。
「何か書いてあるな…地ノ國の……ダメだ、暗すぎて読めない。」
コケの光量では、文字を読むことができなかった。
「ていうかこれ、読めるんだな…見たことない文字だったのに。」
英語のようにも見えるが、この文字は縦書きで、そもそも京は英語が得意ではなかった。
文字を追うと意味が理解できるという、奇妙な感覚だった。
暗くてよく見えなかったが、家に帰るために情報を集めたい今は何としても壁の文字を読む必要があった。
「松明とか、懐中電灯とかないかな、ないだろうな…。」
洞窟内で彷徨っている今となっては、得られる光は明るいほどありがたい。
「(この前買ったライトなんか、今あったら重宝するだろうなぁ…。)」
そんなことをぼんやり考えていると、壁際に大きめの箱が鎮座していることに気づいた。
「この中に入ってないかな、この前買ったヤツ…。」
起こるはずもない奇跡を無意識に期待しながら箱に触れた。
その瞬間、蓋の隙間から白い光が漏れた、ように見えた。
「おい…、嘘だろ…!?」
蓋を開けると、中にはあの『LEDライト』が入っていた。
「うぉ!眩しい!!」
早速点けてみると、あまりの明るさと暗闇に慣れた目のおかげで痛いほど眩しく感じる。
目を細めながらダイヤルを調節し、なんとか目を開けられる明るさにできた。
そんなバカな…と京は思いつつも、ありがたく使わせてもらうことにする。
「明らかに人が生活していた跡があるな…それも最近だ。壁の文字を読めば何があったかわかるかも知れない。」
京は洞窟内を一通り見回すと、壁をライトで照らし文字を読み進めた。
>>>>>>
俺はドルト、村長の息子で地ノ國の民だ。
村を黒い根に侵食され、村人とこの洞まで逃れた。
殆どの村人はやられちまった。
魔影は光玉で追い返しているが、もう残りがない。
諦めるしかないのか…?
……
村娘のメルナが妙なことを言い出した。
不安だが彼女に頼るしかない。
無事を祈ってくれ。
>>>>>>
「これは…。」
読み終わった京は、頭の中で事態を整理する。
「(思ったよりも、ここの洞窟は危険なようだ…。)」
地ノ國や魔影…京が知らない単語が並び、読んでもよくわからない部分がある。
「(だが、ここは日本ではない。そして地球でもない。)」
それだけは明らかだった。
「何やら物騒だな。魔影というのは光玉?で撃退できるのか?光に弱いということか?」
LEDライトを握りしめる。
今の彼は、これを頼りにするしかなかった。
「(とりあえず、外に出なければ…。)」
京は再び洞窟を歩き始める。
人が暮らしていたということは、洞窟の出口はそう遠くない。
生々しい村の最後を目にしてしまったことで、京の中で妹への不安が大きくなる。
「いや…、紗希は、大丈夫と言っていた。信じるしかない。」
悪い想像を振り払い、洞窟を照らした。
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