その時はやっぱり、本当に辛い
美鈴と二人で過ごす夏休みは、今までの人生で一番楽しい時間だった。
ただ家に行くだけでなく、何度かプールにも行ったし、一度私の家にも招いた。玩具なんかはあまりないけど、兄が買ったゲーム機なんかに美鈴が興味津々だったり、妹の藍子が妙にじろじろ見つめて美鈴がたじろいだり、そんなちょっとしたことが可笑しかった。
こんな風にはしゃいでいるのは小学生の時以来だ。実に四年か五年ぶりに童心に帰った気持ちだ。
今はあの時ほど純粋ではないけれど、それでも嫌なことを忘れて遊び呆けていた。美鈴と一緒にいるこの毎日は私の人生の中でも輝かしくきらめいていた。
それでも、私はこの楽しみの中に終わりを予感していた。死よりも確実に早く訪れる私の罪の暴露は、一日、一日、美鈴との心の距離が近づくにつれてその足音を響かせる。
本当の意味で仲良くなるために、もっと美鈴と共にいたいと願うたびに、その絶望的な恐怖が如実に現れる。嫌われたくないために離れたいとも思うけれど、私はもうそれができないくらいに美鈴のことを好きになっていた。
美鈴が笑うと私も嬉しくなるし、泣いていると傍にいてあげたい、怒っていると宥めたい、でも怒らせたい、いろんな彼女の表情を見た。
それはきっと作り物じゃない。常に全力でぶつかってくる彼女に、私も素の自分を見せてしまいたい気持ちは確かにあるのだ。
相反する感情を乗り越えて、美鈴ともっと仲良くなれるだろうか。不安はとても大きいが、それでも優しい彼女なら私を許してくれるかもしれない、そんな甘い気持ちがあった。
美鈴が許してくれるなら、私も私を許せるかもしれない。そして、心の底から安堵した笑顔を浮かべることができるかもしれない。
希望があった。好きな人に許してもらえるなら、なんてちっぽけな一人の子供の感情だけで自分の罪も悪事も覆い隠せてしまう気がした。
それでもよかった。自分の中で決着がつかなくても、美鈴が一言「仕方ないよ」なんて言ってくれれば、それだけで充分だと思った。
糾弾されることが一番怖かった。優しい美鈴が、許してくれないことが一番の恐怖だった。その時、美鈴はどんな風に怒るのか、想像できなかった。想像しただけで吐きそうになるほど恐ろしかった。
現実はきっと許されるわけがないのだ。だから話せない。甘い夢を見ながら、所詮それは夢だと断じることができた。そんな甘い夢を叶えようと思えないほどに、現実は暗い。
けれど、それでも――
――話さなければならない、その確信があった。
―――――――――――――――――――――――――――――
「いいなー姉ちゃん夏祭りなんか行くの」
「まあね」
「綿菓子欲しい」
「嫌だよ、高い」
「何のための夏祭りさ」
八月三十日、夏休みも最後を迎えようとしていた。
美鈴の地元でやるという夏祭りに誘われた次第だ。
今年の夏休みはそれこそ毎日出かけていたが、二人で祭に行くのは初めてだ。
電車は別の日の同じ時間帯にしては多少混んでいて、浴衣を着ている人もいた。既に夕陽は沈むほどの時間帯で、打ち上げ花火もあるらしい。
この人たちみんな、私みたいに祭りに行くのだろうか。そう考えると普通の人たちと迎合している自分に真新しさを感じた。
にしても、混むと人いきれに胸が焼ける。また浴衣の人が近づいてきて……。
「……ん、久瀬か」
「……げ、タバセン」
「ゲとはなんだ、ゲとは」
凛とした浴衣姿で立っていたのは紛う方なき田端先生だった。黒い髪からうなじが見え隠れする姿はやっぱり美しいというのが相応しい、外見だけなら。
「どこに行くんだ、枇々木の家か、ん?」
「近づかないでください」
「いいじゃないか、先生と生徒なんだから。私はもっと久瀬と仲良くなりたくてだな」
「声を出しますよ」
「まだ触ってないぞ」
「まだってなんだ」
そのうち問題になって教師を辞めさせられるには少し惜しいと思うくらいには親切な教師だけど、退職して当然な教師だから仕方ないと諦めもつく。
「ってかタバセンなんですかその格好」
「近くで祭があってな。見回り兼参加だ。いやはや、童心が蘇るよ」
「……はぁ」
「久瀬はなんだ? もしかして君も祭りか。そういえば祭は枇々木の地元駅でやるんだったな。なるほど」
「勝手に予想しないでください」
「論理的帰結というものだ。それで君は、枇々木にどこまで話した?」
タバセンは肩に手を置いて耳元で囁いてくる。電車内で配慮した行動だろうが、そのいちいちが気に障る。
「……『いつか』くる時の話まで、ですね」
「君の罪とやらの話はまだか。別に、気にせずなかったことにしてもいいと思うがな」
「罪は消えませんよ」
「私はそんなものを罪とは呼ばない。確かに君が反省すべきこと、直すべき点はあるかもしれないが、それは君を臆病にさせるほどのものではない。私は、君が心配で」
「少し黙っててください」
耐えかねて言葉を出すと、タバセンは顔を離して、おどけて笑ってみせた。
つくづく気に障る人だ。一年の頃担任だっただけなのに、私の秘密を聞いて、彼女は私と親しくなったつもりなのだろうか。
別にえこひいきをしているわけではないし、誰の尻だって触る人だけど、まだ新任の教師のくせに。
「…………まあ、また学校で」
駅についた。同じ駅で降りると言うのに、先生はすたすたと先に行って、もう見えなくなった。
私の罪を許してくれる人はいる。けれど、どうも先生にその重大さが分かっていないような気がした。
私の抱えている罪、その一旦を背負う必要はなくとも、罪の重さを聞いても納得せず、外野から意見を言っているだけのような。
それはきっとそうなのだろう。確かに法律でも何でも私を裁くことはない。それでも私は人を殺してしまった。その重大な事実を見過ごしてはいけないのだ。
真剣に考えれば、許されるはずがない。
元より、許されることなど期待してはいけないのだ。
――――――――――――――――――――――
待ち合わせ場所は美鈴の家で、玄関には既に彼女が立っていた。
驚くべきはその浴衣姿、金魚の彩られた幼気で愛らしいデザインは、童顔の彼女にはよく似合っているようだった。
「それ、凄いね。私もオシャレした方がよかったかな」
「いや、お母さんが張り切っちゃっただけだから! ごめん、むしろちゃんと言わなくて。バランス悪いよね」
確かに、私は男か、と言われても仕方ないくらい暑さ対策しかしていない。このアンバランスさでは気にならない方がおかしい。
でも二人で楽しんでいたら、なんとか気にせずに済むだろうか、なんて考えてもみる。
「ま、いいじゃん。行こう」
「うん!」
笑顔で頷く美鈴を見ると、結局そういうのはどうでもよくなる。
私が良くて、美鈴が良かったら、世界の全部はそれで良い、とまで思える。結局私の価値観なんて、そんなものだったのか。
それでも良い、ちっぽけでも良かった。それが幸せというものなんだろうと、私は思った。
街灯には提灯が括りつけられ、舞台へ向かうにつれて人が徐々に増えていく。
夜空には既に星が煌煌と輝いているというのに、これっぽっちも暗さを感じることがない。
混雑の具合は出店が並ぶそこから耳ざわりな喧騒と肌にまとわりつく人いきれになっていて、繋いだ手を放せばすぐにでもはぐれてしまいそうなほどだった。
「……凄いね」
「私もこんなにとは思わなかったよ……地元の花火大会なんてもっとしょぼくれたものだと思ってたから」
「タバセン来てるよ。学校ちょっと離れてるのに」
「え、そんなにだったんだ……うーん、夏休み最後には失敗だったかな?」
「それはまあ、これから」
なんとか手を引いて人混みを出て、出店の裏側に回って一息ついた。
これはなかなか、お店によっては買い物もままならない。こんなに栄えていたとは思わなかったというか、なんていうか。
「でもこういうところの食事って楽しいよね! 綿菓子と焼きそばとフランクフルトと水あめは絶対買わなきゃ!」
「……あ、そう。うん、良いと思う」
美鈴は私より遥かに元気だった。あと食い意地も随分元気だ。一応ダイエットしてるってことを忘れてないといいけれど。
でも、言われてみればこの雑多な出店から香る様々な匂いは食欲をそそる。綿菓子のザラメが溶ける匂い、焼きそばのソースの匂い、ケバブのジューシーな肉の芳香に。
噎せ返るような暑さと人の多さ、騒がしく近づかなければ美鈴の声さえ聞こえないほどの状況だけど嗅覚は鮮明に働く。そのせいで、胃袋がきゅうと鳴き始める。
「……私も何か食べよ」
「それがいいよ、うん!」
というわけで結局色々食べることにしたけれど、別々に回ればいいのに今度は美鈴に引っ張られて一緒に色々買い物した。
「別に、これは単独行動でも……」
「ダメーっ! そんなんじゃ駄目だよ梨香! こういうのは一緒だから良いんだからね?」
なんて美鈴は言うけれど、私は強く握られた手から出る汗が気になって仕方ない。美鈴だって移動しているうちに汗をかき始めてるし、ちょっとなんか、普通に汚いと思う。
でも彼女はお構いなしに次から次へと店を移動して、私の手を握る別の方の手はもうそれだけでお祭り状態だった。
あれ全部食べるのかな……、空きっ腹の私でさえ逆にお腹がいっぱいになるくらいだ。よく片手で持てるなぁ。
「あ、これ梨香が持ってて」
挙句、持たされる始末だった。そろそろ食べませんか、と提案しようとした時だ。
「おお! 枇々木に久瀬じゃないか! こっちでも会えるとはな」
「ゲ」
「……」
美鈴は私の手を引っ張って無言で逆方向に歩きだした。御狐様のお面を頭につけて、タバセンはにこにこ笑ってた。
「こらこらどこに行くんだ枇々木」
「ひゃぁ!」
肩でも掴めばいいのに、この女はしれっと尻を触っている。私はサンダルで彼女の下駄みたいな履物を踏んづけようとした。
それでもタバセンはするりと躱してけらけら笑っている。なんて悪質な。
「先生に挨拶はないのか? うん?」
「訴えますよ! 出るとこ出てもいいんですよ!」
「先生百パーセント負けますよ」
「ああ。勘弁してくれ。もう二度としない」
両手を挙げて降参を示しているように、しんみりした表情でタバセンは言った。その手には水風船があるから説得力に欠けるが。
「本当ですか?」
「私は生徒に嘘を吐いたことはない。これほんと」
なんて嘯く姿はますます胡散臭い。が、生徒が本気で嫌がることはあまりしない人だというのも知っている。美鈴の警戒心は解けないけれど。
「うーむ、うーむ、私は枇々木に信用されていないのか」
「付き合いも短いですし先生に信用できるところなんてあまりありませんし」
「久瀬、真実だとしても言って良い事と悪い事があるんだぞ。それくらいは良い事だが」
いいのか。じゃあ言うなよ。
タバセンとの付き合いは長くはないが、学校の中では長い部類に入る。それでも未だにこの人のことはいまいちよくわからないところがある。
「じゃあ物欲に訴えるとしよう。あっちに花火の観覧席があって、本来は私のような教員しか入れないが、特別にそこで見せてやろう」
「えっ、えこひいきじゃないですか?」
「クラスのみんなには内緒だぞ。ついてこい」
なんか既視感のある台詞だった。最近そんな台詞を、美鈴と一緒に見たアニメで聞いたような、と思ったところで美鈴が耳打ちしてきた。単なる偶然だろうけど。
先生について行って、辿り着いたのは人の少ない丘だった。VIP待遇という程ではないが、先ほどまでの人混みに比べればがらんどうと言ってもいいくらいに空いている。
警備員、みたいな人もいて先生が二、三言会話すると、私達もそこに通された。
遠足の時にお弁当を食べるときブルーシートみたいなのを敷いていたけど、それの高級なやつみたいなのが沢山あって、そのうちの一つが先生の持ち分らしかった。
「さて、直に花火の始まるだろうから、ここで見るといい。見晴らしも良いし人も少ないしな」
「本当にいいんですか?」
「悪かったとしても責任は私にある。気にせず楽しむと良い。好きな時に帰ってもいいからな。私はもう少し見回りをしてくる」
本当にそれでいいのか、と思うけれど、素直に頷いておいた。先生が気を利かせてくれたのだから、年下としては甘えさせてもらってもいいだろう。
美鈴も素直に頭を下げて感謝している。こういう時に軽く微笑むタバセンは本当に美人だ。かっこいい。
花火が始まるには今少し時間があった。その間、私達は出店で買った食べ物を食べながら、ちょっとした、他愛もないことを話し合っていた。
これから始まる学校のこと、タバセンのこと、夏休みも部活で忙しい堀田さんのこと、聞かれたから藍子のことも話したし、まだ美鈴が会ったことのない兄と父についての話なんかも。
大したことのない話なのに、毎日のように会っていたのに、不思議と話題に事欠かなかった。そしてすぐに時間は過ぎて、いつの間にか大きな音と共に空が輝いた。
空一面に輝く花火の音と光は、特別な場所で見てるからか――特別な人と見ているからか――記憶より遥かに鮮烈で、刺激的だった。
一つ一つ空に花が咲くたびに心臓が破裂しそうなくらいの衝撃を受ける。こんなに、綺麗なものだったろうか。
ふっ、と美鈴が私の手を握った。変わらない熱い手を私も握り返した。
まるで、愛の告白にもうってつけなムードは、私を奮い立たせた。
全てをぶち壊すかもしれない、今までの関係も何もかも破壊してしまうかもしれない、けれどこれ以上ないタイミングだった。
全て台無しになってしまうとしても、その覚悟はあった。自分は人並みの幸せを掴んで良いはずがないのだと思っていたのだから。
最悪、元に戻るだけなのだ。美鈴と出会う前の、元に戻るだけ。
「あの――」
「先に、私から話すね?」
美鈴の瞳には私が映っていた。花火に照った彼女の顔は少し照れた風にはにかみながら、けれど困った風に苦し気でもあった。
瞬間、彼女が登校拒否を始めた理由を語るのだと理解した。
「と言っても、そんなに大した話じゃないんだけどね。なんていうか、意地張ってただけみたいな、そういうことなんだけど」
「うん、大丈夫。聞かせてほしい」
花火が鳴る。爆発音と歓声の後に、私の中に静寂が響き渡った。
「私って、昔からこんな感じだったからあんまり友達とかいなかったんだよね。でも趣味が趣味だし、インターネットとかで友達を作ってたの。そういうの梨香はあんまり分からなさそうだけど、私には気の合う友達とか、そっちで作る方が得意だった。アニメとか好きだったけど、そういう話をしてくれる人もいなかったし、蓮もそういうのからきしだったから。現実は全然楽しくなかったけど、アニメ見て、それをネットの友達と話し合うのは楽しかった。仕方ないから学校行くとか、そんな感じ。全然馴染めなかったけど、それでも良かったくらい。
それで、特に仲良くなった人がいたの。男の人なんだけど、しかも年下。直接会うこともなかったし、互いに本名とか出身地とかも知らないままだけど、そういうちょっとした情報は分かるの。どこに住んでるのかっていうのも、地方くらいならわかる。そんな関係。
特定の誰かと仲良くなるってあんまりなかったけど、そういうわけで特に仲が良かった。趣味も合うし、年齢も近いし、ね。会おうって言う気はお互いにさらさらなかったと思うけど、何度も会話するようになった。
……うん、本当に楽しかったと思う。その子と喋ってた時は、引きこもってた時と違って――梨香と一緒にいるときみたいに、輝いてた。世界が広がるとか、そういうのはなくても、きちんとやることはやってたし毎日楽しかったもん。楽しい思い出、いっぱいあるし、いっ、今でも、あ、あの日のこと、覚えてる。
わっ、私が、登校拒否する前っ、とつっ、突然っ、その、その子が、名前とか、自分の、こ、個人情報、全部出して、しっ、し、死ぬって、だけ、メッセージ残してっ、そ、それ以来、ずっと、何もなくって
………………………ニュースで、やってた。自殺、その子、いじめで自殺、してたの。だから、だから私っ! 梨香が自殺したいって聞いた時っ! 絶対に止めないとって思ったしっ! もう、そういうの見たくないしっ! だからっ、だからっ、梨香にはっ、梨香はっ、って」
美鈴の話を聞くにつれ、冷や汗が止まらなくなる。
「それで、登校拒否したのは?」
「…………うん、ちょっとした、反骨心みたいな。彼をいじめた人や、見殺しにした人がいて、そんな世界に迎合してやるもんか、みたいな……。えへへ、変だよね。そんなことしても何も変わらないのに。だけど、全部許せなくなって、憎くて、そんなことしてた。馬鹿だよね。でも私は梨香に会って、少しは――」
「私は――」
彼女の言葉を受けとる前に、私は断固として言わなければならなかった。
終わりは確実にそこにあった。
「私が、見殺しにした。岡倉才人を、私が見殺しにした」
「え……なに、なんで、名前……えっ、えっ」
美鈴が登校拒否になる前、私が中学三年の、最後の冬の頃だったろう、時期は同じだった。
偶然、いや運命というのはなんて残酷なのだろうか。彼女の話を聞けばすべてが符合していた。
「岡倉才人は同級生だ」
「…………うそ……うそ、うそ! そんな……だって……」
私が彼を放っておかなければ、美鈴が引きこもることもなく、出会うこともなかっただろう。けれど、彼が死んでしまって美鈴がこんなにも苦しんで、人を憎んで。
そして、私も憎まれている。私も罪の意識をもっていなければ、引きこもったままの美鈴と出会うことはなかった。
なのに、こんな風に出会ってしまった。
「……いや、いやぁっ!」
「ま、待って、美鈴!」
美鈴は走り出した。履物もそのままに、なりふり構わず駆け出した。
追いかけようとして、けれど足の重さに驚き、結局その場に立ち止まった。
追いかける資格が私にあるだろうか。彼女をますます怖がらせてしまった、人間不信にもなってしまう、やっと彼女が出会えた友達が、憎み続けていた人間だったのだ。
わからない。これから美鈴とどう接すればいいのか。どんな顔をして会えばいいのか。
どうすればいいのか、分からない。
何もかも、分からない。