枇々木美鈴との出会い
「いや~ありがとうね久瀬さん、雛のやつすっかり元気になってさ」
仁木さんは気さくに私の肩を叩いて、真横で笑っている。こういう距離の取り方は、やっぱり文尾さんと仲が良いだけあるって感じだ。
パーソナルスペースの狭さは警戒心と比例するみたいで、私みたいに胡散臭い雰囲気の人でも彼女は凄く打ち解けたみたいに喋る。文尾さんほどではないけど。
「お礼を言われることをしたつもりはないけど。ただ言いたいこと言っただけだし」
「それですっかり考えも変えてくれたし万々歳だよ! んじゃサンキューねー」
と、変わらず軽い調子でぷらぷらと手を振って前を行った。実に楽しそうな雰囲気で羨ましい。
文尾さんは別に全ての問題が解決したわけではないだろう。死んでやる、と思ったほどショックなことがあってまだ一日しか経っていないのだ。
苦しみを乗り越えたとか、考えを変えたとか、そんな簡単に済むことではない。鎖のように悲しみは彼女を縛り引きつけている。罪悪感を、十字架を背負う、と表現するけれどそれは言い得て妙なことで、払拭したと思った悲しみは彼女の重りになる。
でも、仲の良い相談相手である友達がいる。しばらく様子見していれば文尾さんは大丈夫だろう。
死ぬ前には私に相談くらいはしてくれると信じてるし、まあ考える必要もないか。
――――――――――――――――――――――
その日の放課後だった。
「よっ久瀬さん」
これまた気さくな態度だけど、例の二人に比べて適切な距離感を保っている。
ええとこの人は、クラスメイトの堀田蓮さん。
短くまとめた髪と清潔感と健康み溢れる若い女子、って感じがして苦手だ。陸上部でいかにも体育会系、って感じなのも、クラスの隅っこでじめじめしてる私とは相容れない。
というか、前まで私に死ぬな死ぬなってうるさく言ってきた人だ。最近はご無沙汰だけど。
「聞いたよ、うら若き乙女の命を救ったんだってね?」
「そんな英雄みたいなことしてないけど」
それは間違いなく過大評価だし、噂が回りまわった結果みたいな情報だ。
というか、二年になって喋ったのは初めてかもしれない。別に私の英雄譚を誉めそやすつもりでもなく、その栄光にあやかりたいわけでもなし。
何か怪しい考えがある気がして席をはずそうとしたけれど、彼女のフットワークで行く手を阻まれて私は自分の席に座り直した。
「……何の用?」
「私はね、嬉しいんだよ。久瀬さんは死にたいって言うけれどきちんと命の大事さを知っているんだなって」
「伊達で死にたいって言ってるわけじゃないから。……それより何の用かって聞いてるの。帰りたいんだけど」
少し強引に堀田さんの脇を通ろうとすると、強引に肩を掴まれて座らされた。
しかも、そのまま私の顔を見つめる。
「わかった。単刀直入に言う」
それは驚くほど静かな声音で、けれど有無を言わさぬ迫力があった。
人と関わることが少なかったからだろうか。気さくで明るい彼女が、中学時代に見た不良たちのように力のある弱者を黙らせるみたいな威迫を持っていることに若干の怯えを抱いた。
「話して欲しい人がいる」
文尾さんや仁木さんの時、それ以上の強制力で、私はうなずかされた。
―――――――――――――――――――――――
高校から私の地元駅とは反対の方向に十分ほど。
少し混んだ電車の中で堀田さんは『話して欲しい人』について教えてくれた。
「私の幼馴染に、枇々木美鈴って子がいて、一応私とも久瀬さんとも同級生なんだけど」
クラスに確かに名前はあるけれど、一度も見たことはない。
枇々木美鈴は登校拒否の生徒だったはずだ。その人と堀田さんが幼馴染だとは知らなかった。
と言うか、去年も一度も見てない。
「一つ年上なんだけど、一年休学して同じ学年になったんだ。登校拒否だから留年みたいなものなんだけど」
「なんで登校拒否?」
「それが私には教えてくれないんだよなー。ってか明らか嫌われてるみたいで」
それは分かる。とは言わなかったけど、堀田さんのズカズカと踏み入ってくる感じはあまり好めない。
堀田さんのような遠慮のない人を求めるような場合もあるだろうけど、私や枇々木さんはそっとしてほしいタイプなのだろう。無遠慮で思慮に欠けると思う。私の考えを無視しているようだし。
一年の時はそれはもう酷かった。正論を押し付けてくる様は言論の自由さえ奪い去る勢いで、彼女の追及のせいで私が孤立したのではないか、とさえ思う。孤立して立ち位置が楽になったから多少感謝したい気持ちもあるが。
「でも、このままじゃ美鈴姉が引きこもりのままどんどんダメになるじゃん。そこで見事雛の説得に成功した久瀬さんに美鈴姉を助けてほしいわけ!」
「それって枇々木さんが助けてほしいって言ったわけじゃないんだ」
「うん」
それは、どうだろう。良くない感じだ。
どうして枇々木さんが引きこもってるかもわからないのに私が説得したところでどうなるとも思わない。あくまで私より年上の人がそう決定して行動してるのを、私がどうにかできるだろうか?
そもそも、それに理があったらどうするんだ。枇々木さんが滔々と説明して私がハイと納得する可能性もある。
……でもまあ、話してみるだけ話してみようか。もう家の前まで来たみたいだし。
「もしもしおばさんお邪魔します!」
堀田さんはチャイムも鳴らさずに玄関戸を開けて入っていく。犯罪じみた行為というか、それだけ気の置けない仲なんだろうけど、真似しがたいけど郷に入ってはということで「失礼します」と声を出して後に続いた。
廊下に階段、と別に特筆することはない。リビングはちらと見えたけど堀田さんは階段を上って、そこにあるドアの前に立つ。
「入るよ」
ノックもせず言いながらドアノブを回すのだから本当にひやひやする。
その中は雨戸も締め切った薄暗い部屋で、テレビから電子の光だけが輝いている。
光に照らされているのは布団にくるまった小山だ。
のそり、とその山が動くと、中から女性が見えた。
長い黒髪で目が隠れそうで、肌はすっかり白い。少し不健康そうな雰囲気と絵に描いたような引きこもり像だ。
クーラーをつけてるから暑くはないとして、布団を被ってるのは剥きだしの警戒心か、安住のためか。
分からないけど、彼女が――枇々木美鈴が向ける視線は強い警戒心と敵意に満ちていた。
「なに? だれ?」
短く切られた言葉は視線と同じ敵意に満ちていて、わずかに掠れて、久しく出ていないだろう声と予想させた。
「こちら久瀬梨香さん。今年からクラスメイト!」
「今年ってもう七月じゃん」
枇々木さんの言うことはその通りで、今年が始まってもう三ヵ月は経った。今になって『はじめまして』というのは場違いな気がする。
一応頭をぺこりとお辞儀すると、僅かに首をかしげる動きをした。門前払いはしないみたいだ。
「久瀬さんに美鈴姉の説得してもらうから」
美鈴姉! 年上の幼馴染なら、そういう呼び方もあるのか。
なんて関係ないところで驚いていると、向こうも驚いている様子だった。もちろん、別の理由で。
「……はぁ?」
正気を疑うような目を向けられたけど、私だって納得はあまりしてない。私ばかり睨まないでほしい。
「そうなんだって」
「ん。じゃあ後はよろしく」
えっ、と声を上げる間もなく堀田さんは部屋を出た。
残されたのは私と布団虫。
「……話とか聞かせてくれますか?」
「……すぐ済む?」
彼女はギラギラ光るテレビ画面に忙しなく目を向ける。
これは……アニメだろうか。久しく見ていない気がする。
「あ、先にどうぞ」
「えっ。いや、始まったばかりだし。時間かかるけど」
「でも、話に集中できませんよね。先に見てください」
「……静かにしててよね」
じとりとねめつけられながら、私は枇々木さんの隣に座った。
隣、というには少し距離があるけれど、初対面の年上の人と一緒にアニメを見るには近すぎる。
この部屋は、どうも彼女の臭いがこびりついているような雰囲気だった。布団や、アニメのDVD、物理的にも象徴としても枇々木美鈴という存在が充満していた。
人の部屋だから、そりゃそうなのだけど。とまれ彼女は空っぽの透明な人間ではなく色濃く個性の残る人間である、と思った。
私とは違う。
―――――――――――――――――――――――――――
二話収録だったからか一時間くらいアニメを見ていた。
「……面白かった」
奇妙な上映会が終わって、素直な感想を何となく呟くと、途端に枇々木さんの態度は変わった。
「ほ、ほほ本当!? 分かる!?」
直後、取り乱したことを恥じたのか、ううん、と唸って、詰めた私との距離を開いた。
けど興奮冷めやらぬ中でも、最初にあった敵意が残っているらしく疑うような目を私に向ける。
「で、でもまあどこが良かったかとか聞いていい?」
疑心は確かだけど、枇々木さんの眼差しも口調も期待が隠しきれていない。
どこが面白かったか、ちょっと考えながら話してみよう。
「どう? どう?」
「魔法少女、って子供の頃に見てた記憶があるけど同じ条件で変身する人達とバトルロワイヤルみたいになってるのってすごく画期的だなって感じた。小学生の女の子と弁護士がホームレスと戦うっていうのも普通じゃないし、そんな超能力者を警察が身元を保護する展開とかも普通見ないし。それにキラキラの魔法少女と戦うのが奇抜な衣装の人だったり魔物みたいだったりだけどみんな同じくらいの能力っていうのも個性が光ってるよ。今後の展開に繋がる話もちりばめられてるし、続きがどうなるんだろうって……」
だらだら。とりあえず思ったことを片っ端から言ってみた。抽象的な言葉が多くていかにも素人の思い付き丸出し、って感じだけど。
「そう! そうなの!」
もう少し話すことはあったけど、途中までの時点で彼女は感極まったか私の両手を掴んで、押して、壁際にまで押して。
「魔法少女メタな邪悪な展開とか作品って昨今結構多い風に想うけど実際のところ魔法少女自体っていうのはどこまでも純粋で正義を信じる美しい心の持ち主なの! まぎマギだってそうだしこのタロチェンも周りの大人の意見に苦しみながら相棒と一緒に自分の信じる正義を貫くっていう熱いシナリオで」
専門用語? かわからないけどとりあえず枇々木さんもなんか興奮して喜んでいることは伝わる。
「わ、なになに」
「続き! 続き見よ!」
「待って。見終わったら話するって」
なぜ引きこもっているか、とかそういう話をするつもり。それを思い出したのか彼女は見るからに落胆した。
俯いた彼女のつやつやの頭が鼻につく。引きこもっているけど、女性としてきちんと髪の手入れとかはしているらしく、甘い華の香りがした。別に、面倒臭がりとか出不精っていうわけではないのか。
「じゃあ面白いっていうのも私の気を引くためなんだ」
「いや、それは素直な感想だけど」
「ん……そう、だよね。うん、良い感想聞けたし」
落ち込んだり気を取り戻したり、とても感情表現の豊かな人だ。
敵意と警戒心はどこへやら、枇々木さんはアニメの話には夢中になるらしい。
はっきり言えばオタクなんだと思う。
でもアニメは確かに面白かった。
「で、なに? 学校は行かないけど」
「なんでですか?」
「……世間を信用できない、から、みたいな」
ふわっとした答えだ。ふざけてる……わけではない、と思うけど。
「このままずっと引きこもるんですか」
「……私の勝手でしょ」
「まあ、そうなんですけど」
「……説得する気ある?」
「堀田さんに言われて強引に連れて来られたから」
正直に、私が本音を話してしまうと、枇々木さんは耐えきれなくなって笑った。
「あっ……笑いましたね」
私は何を言ってるんだろうと思った。枇々木さんの笑顔を喜ぶみたいな。笑って、なんだ。
「わ、笑うわよ! 人間なんだから」
ちょっとムッとした枇々木さんは、本当に表情がころころ変わる。
引きこもりで登校拒否で、敵意剥きだしだったけど、話してみれば普通の人なんだ。オタクだけど、それも含めて普通の人だ。
「学校、来ませんか? その、同じクラスですし」
なんて、誘うみたいなことを言う。ともかく枇々木さんが学校に来てくれれば全て解決するのだから。
彼女は少し悩んでいるみたいだけど、目を背けてぽそっと言った。
「……考えとく」
これで任務完了だろうか。それとも『善処します』みたいな信用ならない台詞は証拠にはならないか。
でも私のすることとしては十分だろう、アニメを見て時間も結構経ったし、帰るには良い頃合いだ。
部屋を出る直前になって、「あ!」と大きな声を出した枇々木さんは、私に大荷物を渡した。
「これ、タロチェンの円盤! 全部投げるから見てよ! 絶対面白いから」
「えっ、えぇ……」
六枚のDVD、全部一時間と考えるとこれで一日の四分の一の時間になるわけだけど。
枇々木さんは満足げに親指を立てて私の幸運を祈る姿勢だった。
「テスト近いんだけど」
「あー、ふーん。……あっ、期末テストか」
「うん」
そういえば、私もタメ口になってた。年上は年上だけど、クラスメイトだから構わないだろうか。
「それ見終わったら学校行ってあげる」
「えぇ……」
本当に面倒臭い人だ……。
学校は誰かのために行くものじゃありません~自分のために行くものです~! なんて先生は言うだろうけど、この人は引きこもる方を選んだわけだし、条件付きでも学校に行くことを提示してきたのは進歩だろうか。
何故私がこの人のために身を削らないといけないのか、と思う。
でもDVDのイラスト、ちょっと射幸心をあおるというか……。
はっきり言って、見てみたい。
「じゃあ土日で見とくから、月曜日には来て」
「本当!? えぇ~どうしよっかな~。それだったら続編も見せたいな~」
「それはまた学校で」
きっちりDVDは鞄に入れて、やっと帰れるってタイミングで。
「あー待って待って! 名前、なんだっけ」
「久瀬梨香。じゃあね、枇々木美鈴、さん」
お別れを告げて階段を降りると、リビングで堀田さんと、たぶん枇々木美鈴の母親が談笑していた。
「あ、どう? 学校来てくれるって?」
「それは枇々木さん次第だね」
「ま、しょうがないか」
そんな風に諦めムードが漂った。
実際、月曜日に枇々木美鈴は学校に来たけど。