教師
美鈴の家から帰って、いつもみたいにぼんやりお風呂に入ったり、兄と父が帰ってくるのを部屋で聞いたりしていると、スマホがブルルと震えた。
たまに美鈴と通話するくらいしか震えないから、意気揚々と見てみると、お相手は仁木さんだった。
そういえば、連絡先は喫茶店で交換していた。とはいっても、彼女から通話を求められると微妙に萎縮する。
仁木さんとの距離感はいまだに掴みかねている。仁木さんの秘密を知ったことに関して優位であるようだけど、仁木さんには今日庇ってもらった恩がある。文尾さんを通じて知り合った仲であって、別に私たちが仲良いとか近しい存在ではないのだ。
少し恐る恐る、通話してみると「あ、もしもし?」と当たり障りない普通の声が聞こえた。
「仁木さん、珍しいね。何か用?」
『いや……なんつーか、どう? 結構クラスとかだと話しづらいこともあるじゃん。まあ私もそうなんだけど』
「私は別に仁木さんに言う事ないけど」
『いやいや何もないこたないでしょ』
「何もないこたあるが」
『私もレズなのに糾弾されてないとか』
仁木さんは結構平然とそんなことを言った。もちろん、平然と言えることじゃないから、言われた私の方が戸惑ってしまったけど。
ただ落ち着いて考えれば、仁木さんは罪悪感を感じているのだろう。自身が同性を愛していることを知っている人が、同性愛者の誹りを受けている。それなのに秘密を隠してもらって、クラスで普通にしている、とか。
確かに守られているとか、秘密を握られているというのは不安なものかもしれない。けど私にとってそれは些細なことでしかない。
「えーっと……、私が、仁木さんもレズだよ! って考えなしに道連れするみたいな人に思う?」
『いや、それはないけど……。私を脅すネタ、とか』
「脅しても仕方ないでしょ。あの状況で私も女のが好きですなんて言う方がありえないし」
自分のことを隠すのが仁木さんにとってちょっとした罪悪感なのかもしれない。その秘密を私が知ったことも、彼女にとって引け目のようになっているのか。
理は私にあるけど、仁木さんはまだ何か言いかねている。もにゃもにゃ、普段の彼女らしくなくて気持ち悪い。
「なに?」
『いや……、色々あんだよ、私にも。私がクラスでとか、雛に好きだって言おうと思ったけど言えなかったことが何度もあって、でもできなかったけど、できなくてよかったなぁみたいな、どんな風になるか分かって自分がこうなってたかもしれないとか、自分じゃなくてよかったとか、そういう言い辛い話!』
「ふーん」と適当にリアクションした。仁木さんの悩みは、私には想像もつかないほど大きくて複雑なんだろう。私は彼女ほど長く、深く悩んでいないから、同じようで違う。
私が、そもそも教室で仁木さんのことを何か言うなんてないし、仁木さんとクラスで話すこともないだろう。
ほぼ赤の他人だ。ただ、ちょっと秘密を共有しているだけの、距離感のある人。
「何か悩んでたら、こういう時に聞くよ。教室じゃ美鈴以外と話すこともないだろうし」
『……それは、たぶん助かる。が……、あ! それなら私だってアンタの悩みとか聞くよ! ほら、私の方が色々考えてたし役に立てると思う!』
「別に無理はしなくても」
『無理っていうか! ……むしろ、ちょっと聞いてみたい。私以外の、そういう悩み』
それは、そういう悩みを長年抱え続けていた仁木さんならではの気持ちなんだろう。
私はまだ自分の気持ちとにらめっこ、他人の悩みなんて聞こうとも思えない。
「別に話して楽になる、って気もしないけど。タバセンには話したり、してるけど」
田端先生と仁木さんを区別するつもりはないけれど、一年以上話を聞いてもらっている人だから、先生には少し甘くなっているのかもしれない。
『あータバセン……、なあその、あいつ大丈夫なん?』
「大丈夫って何が?」
『いや、実はこないだ……ちょっと話したら、あーなんていうかモヤッとしたんだけど』
仁木さんが珍しく歯切れの悪い様子で何か言いかける。無理に言わせるつもりもなかったが、少し待つと彼女は自分から口を開いた。
『体触られそうになって、拒否したら、『ああいや、私にそのケはないぞ』みたいに言ってて、なんか凄く嫌だった』
「ふーん、なるほど」と言った。
なんだろう。
確かになんか嫌だ。
タバセンはクールに見えて結構軽いやつだし頭も悪そうだから、そんなことを言ってる姿はありありとありありと想像できた。仁木さんが嘘を吐く理由もないだろうし、それが事実だと確信した。
なんだろうか。
軽く扱われているみたいで、嫌だ。
ふつふつと、不思議な怒りがこみあげてくる。それを引きずり下ろすような悲しさが膨れ上がる。
どうしたいのか分からないけれど、感情は爆発しそうなほど拍動を繰り返す。叫びたいような掻き毟りたいような行き場のない力が溢れる。
私の気持ちは――幻滅、に近い。
「じゃあね」
『おう。ありがとな』
気づけば電話は終わっていたけど、私のモヤが晴れることはなかった。
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間さんと堀田さんの険悪な雰囲気と、以前に比べて格段に減った二人の口数のせいで、クラスの雰囲気は相変わらずだった。
彼女らが部活や放課後に憂さ晴らしでもしてくれていれば、まだ色々マシだろうけど、こちらの問題を解決しなければ憂さ晴らしもできないのかもしれない。
しかし妥協点が見つからない。だって私も美鈴もどのようにしたって二人の意見がそぐわない限りどうしようもないのだ。
まあ、それはさておき――
放課後、美鈴は帰して私は職員室に向かう。
「お、久瀬! ちょうどいいニュースがあるんだが……」
「私は悪いニュースがあるんですが」
思わず口走った。別に、悪いニュースと言うほどのことでもないのに。
「……何か、あったのか? ピリピリしているみたいだが」
「セオリー通りだと良いニュースから話すべきですよね」
「ん、む。まあ、そうだが」
流石に先生も戸惑っているみたいだ。それにしても、私はそんなに分かりやすく苛立っているのだろうか。そこまで怒りを覚えているつもりもないのだが。
「気を取り直して、日本でジェンダーや性差別について詳しい大町夜那先生がこの学校に講演しに来てくださることになった! 急ごしらえではあるが、みんなにどういう問題があるかというのをしかと当事者の口から聞いて学んでもらった方が早いと思ってな。まあ部落差別や同和問題、人種差別には限りがないが、こういうできることからしていくのが大事だ。……で、君は?」
「仁木さんと、話したんですけど」
先生は本当に、きちんと努力しているんだなと思った。一つ一つ、問題が少しでも解決するようにいろんなことをしている。
それに比べると、私の悪いニュースなんてのはちっぽけな嫉妬のようなもので、小さな小さな醜い感情、心の小さな翳り。
「なんですかね、女生徒に触って、私にそのケはないと、茶化すみたいに」
「……ああ、っと、少しいいかな」
先生に手を引かれる。いつもは職員室の中だったり入り口だったり、立って話すのに、私は急ぎ足で二人きりの面談室につれていかれた。
ちょっと変わった場所で二、三人しか入れない小さな和室、畳に座った先生と小さな机を挟んで私も正座した。
説教、ではないみたいだ。
先生は、顔色を悪くして歯を食いしばっていた。
「……………………」
でも口を開きそうになかった。沈痛な面持ちが、こちらの緊張感を増させる。
「あの」
「……申し開きの言葉もない。その…………いや、言い訳、ばかりになってしまうんだ」
「別に、私もそこまで気にするつもりもないんですけど」
先生が辛そうにしているのを見ると、私の方も辛くなる。私だって何が嫌なのかよく分かってない漠然とした気持ちなのだ。
そんな曖昧な状態で先生に伝えて、先生の方がずっと苦しんでいるみたいだ。
それは嫌だ。
「……私はただ、なんなのかはよく分からないんですけど、先生は一所懸命、私の問題に向き合って、解決しようと奔走してくれて、ありがたいですし、私たちのことを考えてくれているんだなって思ってました。けど、仁木さんからそういうやり取りがあったって聞いて、別に私達は特別じゃないっていうか、ネタみたいにしてるんだと、先生は誰とでも仲良くするし、それはそうなんですけど、そのためならそういうことを言う人なんだって、見られてないところだったらそういうことするんだって思ったんです! 先生はたぶん私達のことを嫌な生徒にも、私達を茶化すみたいな言い方で」
「ち、違うっ! ちが…………、……」
先生がやっと声を出して、それで私の言葉が止まって、初めて私がこんなに息を荒げていると気付いた。
私は、私が思ってるよりずっと怒っていた。ずっと、ショックだった。
良き理解者だと思っていたのだろうか、信頼していた、そういういろんな先生に対しての幻滅が、私は、辛いんだ。
「……違わなくないな。その通りだ……」
意気消沈して俯いた先生は私の方を見ない。ただ脱力したように落ち込んだ肩のだるそうな感じが伝わる。
先生もショックは受けたのだろう。それは、悪事がバレた、というようなものだが。
先生も、先生だから、そういうことはあるのだろう。誰とでも親しくするのが教師なのだ。
仕方ないと言えば仕方ない。それを納得できないのは私の我侭なのかもしれない。
「……先生は、先生なんですから、私より、そういう多数派と仲良くしたほうが……」
「違う、それは違うんだ久瀬。そうじゃない、それじゃいつまで経ってもダメなんだ! 私が、私が言えたことじゃないとしても、君に知ってもらわないといけない。そんなつもりじゃなかった……いや、私は……、……償えないのか……?」
先生がこんな風になってるの初めて見た、とか、思った。それは私と先生を決定的に断絶させる言葉だよ、とか。
色んなことが頭をめぐる。大袈裟だと思うような、でもそれは贖えないことのようで。
先生の軽口は、別に仁木さんでなければ発覚のしようもないただの軽口だった。仁木さんが聞いても私に話さなければ平気なことだし、私の受け取り方次第でもある。
先生がそう言ったことを、たくさん悔やんだかもしれない。ああ、言ってしまった、と小さな後悔もしたかもしれない。
けど、結局はこうなった。償う手段はいくらでもあるかもしれないけど、今の私には答えられない。
「……まあ、いいじゃないですか、そんな、大したことじゃないですよ」
先生が取り乱した分、私が少し落ち着きを取り戻した。気持ち良い事じゃないのは確かだが、取り立てて責めるべきことでもないはずだ。
辛い気持ちもあるが、やっぱり私よりも先生の方が辛いようだし。
「……それじゃ、駄目だ。私が嫌だ。……取り返せない、のか。私は、君と、本音で語り合いたくて……ああ、もう、駄目なんだ。私は、私のせいで……」
先生の言葉でじわりと目元に熱が帯びるのを感じた。
私はそこまで先生と距離を開けるつもりはない。それでも、確かに壁のようなものはそこにあった。
以前のように気兼ねなく、とはいけないのかもしれない。
「ちょっと時間を置きましょうよ。今は、私も気持ちの整理がついてないですし……」
「待って、行かないでくれ! 久瀬!」
腰を上げようとしたら、机に乗りかかるように先生は覆い被さってきた。そのまま押し倒されて、先生にのしかかられる。
スキンシップどころではない、かつてない行動に息を呑むけれど、先生は私の胸元でぐずぐず鼻をすすっていた。
というか、普通に泣いていた。生徒の胸で、惨めたらしく、女の子みたいに。
そんな風にされると私はもう何も言えなくなる。離れたり帰ることもできないので、とりあえず先生が落ち着くのを待つしかない。
先生は何を考えているのだろうか。制服の胸元が先生の涙でしっとり濡れてきた。
こうして私の胸の中で泣く先生の姿を見ると、さっきまで抱えていた複雑な感情が水に溶けるように色褪せてきた。無になることはないかもだけど、ムキになるのは馬鹿らしいとすら思える。
先生だって、まだ二十歳そこそこの女性で、教師としても新人だし、そういうミスもあるんだろう。
一杯頑張っていることも知っている。それを労いもせずに、ケチをつけているような気になってきた。
少し労おうかと、先生の後頭部をなでると、ごろんと寝返って、先生のおでこに手が当たる。
膝枕みたいな姿勢になった。先生の濡れた目と赤い鼻が、普段より幼げな表情に見せている。
「あの、大丈夫ですか」
「……ぜんぜんなんにもだいじょばない」
力の抜けきった声が出てきた。普段の先生らしからぬ感じで、ささっと腕で目元を隠した。
微妙な感じになって何を言ったものかと考えていると、そのまま先生は言う。
「仕事やめたい」
「……え!?」
思いもよらない言葉に、また驚いた。
というか普段の先生と違いすぎる。状況も異常だし、気持ちがついていかない。今、私は何をされているんだ。
膝枕をして、先生の愚痴を聞いている、という状況だった。うん、意外とすぐに理解できた。
「結構多いらしいぞ、燃え尽き症候群みたいな、新人の先生が受け持ったクラスが終わって、疲れてそれでやめるみたいな」
「いや、受け持ったクラス終わってないぞ」
「私にとって、君だ、久瀬。君が私から離れるともう燃え尽きる。いやんなった」
「ええ、子供ですか」
「子供だ。二十六歳なんてまだまだ子供だ」
「それ子供の年齢じゃないですよ」
先生のこと、ずっと大人だと思っていた。今の恰好を見てると確かに情けないけど、それでも先生は、言うのは恥ずかしいけど、憧れの先生だから。
「とはいっても、まだまだ分からないこともあるし、軽率なミスもする。特定の生徒に思い入れだってできる。それも、飛び切りえこひいきの強い思い入れ」
先生の腕がずれて、いたずらっ子みたいな眼と目が合う。
「……高校も大学も苦労したが、この仕事は一番辛い。何度もやめたいと思ったが、君のことを想うとなんとか続けて来れた。君が……死のうとしたときは、本当に辞めようと思った。私だって……、いや、苦しかった、本当に」
「……そういうこと話していいんですか?」
「ダメなことしか話していない。もう辞めるつもりだから気にしないがね」
へへ、と先生が笑む。
いつもみたいなクールな感じや表情を崩さない感じと違う、あどけない印象がとても似合っていた。
きっと先生は普段から気を張っているんだろう、今はそれがないから、先生の本質が出ている。
本当に、苦労してるんだろうな。それが仕事だから当然なのか、四六時中無理を強いられるような仕事はすべきじゃないのか、私にはわからないけど。
先生の髪を、つつと撫でた。まあるいおでこを撫でて、そっと腕をのかす。
「償いたいですか?」
「……まあ。でも、もう辞めるし」
「辞めないでください。続けるって約束したら、許します」
「……えっ。いや、でも」
先生の意志はそれなりに固いらしく、辞める方向に寄っている。でも決断はまだ揺らぐ。
「私が卒業するまで頑張れませんか?」
「…………そりゃ、今年度くらいは続けなきゃだが……」
「もう生徒の体にべたべた触らない。そうしたら、変なことも言いませんよね?」
「……うぅ」
「私には先生の力が必要なんです。お願いします、先生」
「……ずるい、そんなこと言われたら辞められない」
「辞めないでいいじゃないですか」
「……うぅぅ」
「先生のこと大好きなんです。いなくなると寂しい」
「……! そ、そういうことよく言えるな!」
「そりゃ恥ずかしいですけど本当のことですから」
先生の腕がまた顔を隠した。照れ隠しをするところも、可愛いって素直に思える。
私も嘘はついていない。タバセンだから、いろんな相談ができるし、去年よりずっと先生のことを好きになった。
もう、先生がいない学校なんて考えられないくらいだ。
でも先生がどうするかは、私が決めることじゃない。
「無理はしないでいいです。あとは任せます。私の意見としては、是非続けてほしいです。辞めないでほしい」
「……君が頑張るのに私がヘタレるか。……今日のことは内緒だぞ。誰にも言うなよ言ったら私の意志関係なく辞めさせられる」
「はいはい」
少しくたびれた様子だけど、先生はそんな風にムキになって言った。辞めないために、そう言ってくれて、少しだけ嬉しくなった。
「辛くなったら、またこうして愚痴を聞きますよ」
「……甘やかさないでくれ。その、ああもう、全部恥ずかしいし申し訳ないし、めちゃくちゃだ……!」
また先生は腕で顔を隠した。私はそんな先生のおでこを撫でていた。




