手探りの道
一体どれくらい待っただろう、仁木さんが落ち着いて、二杯目のコーヒーを注文するかどうか悩んでいたくらいの時だった。
仁木さんのスマホが鳴りだして、それを見て表情を一変させた。
「どうしたの?」
「枇々木美鈴が逃げ出した」
逃げ出したという物騒な言葉に、私も思わず立ち上がりそうになる。けど、それは仁木さんが素早く制した。
「とりあえず合流するから、来て」
言われるがまま、私は仁木さんについていく。彼女の顔色や態度からそれが不測の事態で、彼女にとっても不本意な様子は明らかだった。
何があったのか、それくらいは文尾さんに聞かなければならない。
美鈴と一体何を話して、何があって逃げられたのか。
何もないならそれでいいのだけれど。
美鈴と文尾さんはどうやらすぐそこのお店で一緒に話していたらしい。灯台下暗しとはこのことだ。
けれど私達がそのお店についた後で文尾さんは戻ってきた。逃げた美鈴を一人で探していたらしく、話を聞くのも難しそうなくらい息を切らしている。
「雛、一体何したわけ?」
「わ、私悪くないし! ちょっと枇々木さんと話してたら、急に枇々木さんが、あ、その……」
文尾さんは私を見て口籠った。弁明をするには、まるで私がいると不都合であると言わんばかりに。
概ね、そういうことだろうと予想は立てていたが、更なる嫌な予感がする。
ダメだ、これ以上は聞いてはいけない、と頭の中で警鐘が鳴り響く。それでも、時待たずして彼女は口を開いた。
「……枇々木さん、梨香のことが好きだって……。変だよそんなの、普通じゃない。おかしい、気持ち悪い」
その言葉を、私は平然と受け入れる。それは私と同じ意見だから、私も同じことを思っていたから。文尾さんがそういうことに充分な理解があった。
だって――そうだと思ってた。女同士でなんて結婚もできないし子供も産めない。何の意味があるのか? 自己満足の関係でしかない。
そんな風に思っていたとして。
私は美鈴を知ってしまった。
そして、仁木さんを知ってしまった。
「……とりあえず、文尾さんは休んでて! 私と仁木さんでもう少しこの辺りを探すから!!」
できるだけ顔を合わさないように、私は立ち尽くす仁木さんを引っ張ってできるだけその場を離れた。
今、これ以上文尾さんと仁木さんを一緒にはいさせられない。
ただ走った。今だけは美鈴のことも忘れて、仁木さんを気遣った。
強気に見えて意外と乙女なところのある仁木さん、目つき悪いけどそこそこ優しくて恩とか感じる、普通の女の子。
途中から、仁木さんは自分で走り出した。何もかも忘れたいように、自分の全てを投げ打つように、綺麗なフォームでどこまでも駆けて行きそうだった。
けれど、すぐに現実に立ち返ったみたいに足を止めて、往来の中で泣き出した。
「うっ、う、うあ、あああああああああああああああああ!」
美鈴の常識を疑うような、文尾さんの残酷な目は、やはり仁木さんを傷つけていた。
今までの全てを吐き出すような慟哭は止まらない。一体どれだけの出来事に彼女は傷ついてきたのだろうか。どれくらい我慢してきたのだろうか。
私の想像をはるかに超える苦しみを、彼女は誰にも相談できず抱え込み、そうして生きてきた。
「なんで……なんで私ばっかりこんな……っ!」
前から彼女を抱きしめた。膝立ちになった仁木さんは私のお腹にぎゅっと抱き着いて、しゃにむに顔をこすっている。
「私……私っ、私ずっと……!」
「うん」
「だって……ずっと想ってたのに!」
「うん」
無茶苦茶に泣き喚く彼女は、どれだけ今まで泣いてきたんだろう。人に話せず一人で苦しむ時間がどれだけ長かったのだろう。
私に理解はできないのだろうか。少しでも、理解してあげられるなら。
こんな私でもわかることはある。
この苦しみは、美鈴が味わっている苦しみなんだ。
今の仁木さんの涙は、叫びは、美鈴のものなんだ。
その想いの全てを理解できるとはいえない。
だけどこの想いがどれだけ尊いものかは私にもわかる。
しばらく抱きしめた後、不意に仁木さんは立ち上がって、赤い顔で言った。
「恥ずいわ。マジ」
「恥ずかしがることじゃないと思うけど」
まあ、道の往来だし。目立ったけど。泣き腫らした目元はまだ彼女の苦しみが痛々しく後を引くように残っているが、それでも気丈に彼女は声を震わせながら問う。
「いや……。いや、それより枇々木さんは? どうすんの?」
そう、美鈴と会って話さなければならない。それは間違いないが、彼女が今どこにいるか分からないのは問題だった。
二人の思い出の場所、みたいなのがメジャーな解決策だと思うけど、二人で言った映画やプール、動物園とかお祭り、思い出は色々ある。
一番の思い出は……私にとっては美鈴と初めて出会った、彼女の家か。思い出とは関係なく最初に行くべき場所だ。
「……仁木さんはもう大丈夫?」
「じゃ、まだ抱きしめててくれんの?」
「……必要なら」
「やめろやめろ。真面目腐った顔しやがって。……ま、頑張れって」
泣き疲れてはぁと溜息を吐いた仁木さんは、そのままふらふらと歩いて行った。声をかけようとしたけど、強く睨まれた。行け、と強く念じられた気がする。
心配だけど、これ以上気遣っても彼女にとって迷惑なのかもしれない。できれば力になってあげたいと思う。
……仁木さんのことは、理解はできなくても助けてあげたいと思う。それはやっぱり同情とか心配みたいな気持ちで、正しいものか間違っているものかも分からない。
だけど放っておけない気持ちが確かにある。私は、わからないと諦めるよりも、わからないままでもその気持ちを大事にしたいと思った。
問題は、私も当事者になりつつある美鈴の問題だ。
――――――――――――――――――――――――――
電車に乗ってとりあえず美鈴の家に来たけれど、それがビンゴだった。
「美鈴なら部屋にいるけど、どうしたの?」
「いえ、少し」
おばさんに挨拶してから、階段を上がって部屋の前に立つ。
ノックを二回して、深く息を吸って、声が震えないように気を付けて。
「美鈴、話を聞いて」
「何の話?」
「私と美鈴の話」
扉が開いて、沈んだ表情の美鈴が待ち受けていた。
髪はぼさぼさだし、目は赤い。けど彼女は表情を崩すことなく、陰鬱な視線を見せていた。
「座って」
布団をかぶるようにしている美鈴は、初めて会った時のような排他的な雰囲気だ。誰も受け付けない、寄せ付けない、敵意と警戒心の塊のような人。
今はその時より複雑だ。私は彼女を知りすぎた。離れていた糸が紡がれたのに、絡まってぐちゃぐちゃになって、離れたくても離れない、元に戻すことも不可能のような状態になっている。
彼女はアニメを見ていた。これは……どういう話だろうか。
「……これで最後にしよ」
「どういう意味」
美鈴は口を開かない。彼女の目には見ている電子の光が映っている。
少しの間だけ私もそれを見ていた。なんてことのない、平凡なストーリー……いや、ストーリーとも言い難い、女の子たちが楽しそうに日々を過ごしていくアニメだった。
笑いあり、友情あり、たまにちょっと感動させたり、そんなほのぼのした光景が、ますます私達の会話を閉ざすように冷えさせていく。
「いいよね」
ぽつり、独り言みたいな言葉は、何を意味しているのか分かりづらい。けど美鈴はこのアニメに対しての称賛を言ったらしい。
私も、良いと思う。人と人が、疑念や偏見を持たず触れ合うだけの様子が、これだけ安らかなものであるということが、今の私には遠かった。
じっと、黙ってアニメを見ていた。
私と美鈴が初めて会った時と同じように、ただ黙ってテレビを見ていた。
「……ふふっ」
こういうの、あると知ってたけど美鈴は私に勧めたり見せたりしなかった。いざ見てみると、いかがわしいことはなく、少しずつ親密になる様子や微笑ましさが目立つ。
そう悪いものではない。
けれど気になるのは、美鈴が表情を変えず、神妙にそれを見守っていること。
初めて来た時は、口を開けてぼんやりして見ているくらいだったのに、今は口を堅く結んで、アニメを見ているようで何も見ていないようだ。
何話か見て、何回目かのディスク交換に至って、私はやっと美鈴の手を止めた。
手を止められて、美鈴はじっと私を見る。私もじっと美鈴を見る。
私から、話さなければならない。これは私の役目だ。
「最後じゃない、私達は、これからも一緒だから」
「…………、文尾さんと喋って、言われたよ。気持ち悪いし普通じゃないって。梨香もそう思ってるでしょ」
「思ってない」
「嘘だよ」
「嘘じゃない」
「嘘だッ!」
腕を払われて、私は突き飛ばされた。積み上がった漫画を崩しながら倒れた私を、見下しながら美鈴はキツく睨んでいた。
今までよりも、キツい顔だ。大好きな美鈴に、そんな顔をさせたことも、そんな顔で見られることも辛い。
だけど、表情を出してくれる、本気でぶつかってくれる、そのことが少しだけ嬉しい。
ようやく同じ土俵に立ったのだ。
「もうっ、もうっ慰めないでっ! そんな希望持ちたくない! 梨香は――いい人だよ、私なんかが好きになるくらい、真面目で、優しくて……でも、優しいだけ。私の気持ちだって、わかってない。梨香の気持ちも伴ってない! 梨香は友達気分のままじゃん!」
「友達気分じゃ駄目なの?」
「そんなの……私が我慢できない。私が梨香のこと、好きで、好きで好きで、大好きでたまらないのに、梨香は私のことを友達としか思ってない。そんなの、辛いよ」
「私だって美鈴のこと大好きだよ」
「違う。そんなの質が違う」
「好きの質ってなに?」
美鈴の怒りを受け止め、諭すように話していたけど、少しだけ苛立ちを出してしまった。
美鈴に分かってほしい、私の気持ちを理解してほしいがために私は滔々と彼女に伝えるが、早くわかり合いたい、その気持ちが少しの焦りを生む。
それでも、彼女の返答を待ちながら、もう少し落ち着く。お互いが大事に想い合っているのに、分かり合えないわけがない。
「……梨香の好きと私の好きは違うよ。分かるでしょ、それぐらい」
「私はそんなに物分かり良くない。なんで違うの。何が違うの。だって私は、美鈴と離れたら寂しい! もっと美鈴と一緒にいたいんだよ!」
すごく、シンプルな答えだ。私の全ての気持ちだ。幼稚園児にだって理解できる至極単純で真っ当な私の感情。
美鈴は何か言おうとして、目を閉じ口を閉じ、少し首を振って、まだ地面に座り込んでいる私に目線を合わせた。
そして、そっと近づいて――
柔らかな唇が触れた時、彼女の肩は震えていた。
目から涙がこぼれていた。
優しい、羽のような軽いタッチは、ほんの一瞬だけの時間だった。
「……嫌でしょ?」
「……は?」
「私の好きっていうのは、こういう……ことだから……」
そんなことを言って、美鈴はさめざめと泣き始めた。
まるで全てを失ったかのように。全てを諦めたように、泣いて、そこから動かない。
「……そんなくらいで、美鈴を一人にしない」
キスの一つなんて全然大したことがない。
それが美鈴にとってどれだけ勇気ある行動だったのか、理解もできない。禁じられた行為でもない、むしろキスの一つや二つくらい、なんだというのだ。タバセンにどれだけ体を触られていると思っているんだ。
今度は私から美鈴に近づいた。普段は、体を触られることを極端に嫌がる彼女だけど、今はただ困惑しているみたいで抵抗はない。
自分からするのは、少し勇気がいる。その行為が美鈴を傷つけるかもしれないと思うと、なおさら胸が苦しくもなる。
けれどその行為だけで美鈴を安心させられるのなら、一度や二度どころか、何度だってしてみせる。それで、美鈴と一緒にいられるなら、それくらいはお安い御用だ。
鼻息が荒くなってないかとか、心臓の音を聞かれないかとか、妙に緊張するけれど、彼女が沢山の勇気を奮ってそれをしたのだ。
私だって応えたい。私の気持ちを美鈴に伝えたい。
好きの質が違う、そんなことを言ったけれど、美鈴と一緒に居たい気持ちは同じなはずだ。
彼女を覆うように、押し付けるように、確かに感じさせるように、私は強く、唇を重ねた。
――どうだろう。緊張しすぎて目を瞑ってしまった。
ゆっくり目を開くと、美鈴は驚きのあまり絶句しているようだった。ここで、決め台詞の一つでも言えればかっこいいのだろうけど。
「えっ……とだね、えっと……」
緊張しすぎて、キスしたことしか覚えていないくらい、クラクラした。
なんでキスしたんだろう、なんでキスされたんだろう。そもそもキスすることに何の意味があったんだろう。疑問は沸くけれど、事実としてキスしたということしか覚えてない。
私は何が言いたかったんだろう。
「どうだ!」
「どうだ……って?」
「え、えっと……?」
勢いに任せるのは失敗した。キスされた美鈴よりも私の方が驚いて頭が真っ白になっているみたいだ。
私がなおもしどろもどろしていると、彼女は可笑しそうに笑った。
ふふふ、と笑った。やっと美鈴が笑ってくれた。
それだけで私も、少し笑顔になった。
「私の傍で笑っててほしい」
「……! ず、ずるい!」
何がずるいのか分からないけど、美鈴は迷っている。まだ決めかねているけど、どちらの道に進むのか悩んでいる。
「私、本当に分からないことばかりだと思う。好きの種類とか、美鈴とどういう風になるべきかとか、そういうことは分からない。これからどうなるかも。だけど、できるだけ美鈴の要望にも応えてみたい。何より、私が美鈴と一緒にいたい。だから、うん、引きこもっても逃げても美鈴と一緒にいるから!」
美鈴が求める完璧な答えではないだろう。不満も禍根も残すことになると思う。それでも、私と美鈴の折衷案にはなるはずだ。
それでもまだ、美鈴は暗い顔をしていた。
「……でも、文尾さんに話しちゃった。……私と一緒にいたら梨香まで、その、変な目で見られる」
「変な目」
タバセンが熱弁してたけど、偏見とか差別、あるらしい。
そこは私にもぼんやりとしたイメージしかない。
「それって美鈴と離れることより辛いか?」
「……それはわかんない」
「美鈴が辛いなら……」
「私は! 私のせいで梨香が辛い目に遭うのが嫌なの!」
「だったら一緒にいて。ね?」
少し媚びるようにお願いすると、美鈴は耐えかねて、溜息を吐いた。
まだ全てを飲み込めたわけじゃないだろう。
彼女はたくさんの不安を感じて、いろんなことに困って、嫌になって、逃げたくて。
「……うん」
それでも、私と一緒に進むことを決めてくれた。
どんなことになるか、私には想像もつかないけれど、私も美鈴と進むことにしたのだ。




