白き女神のプロローグ
部屋に入るとき、ノックを忘れてはいけない。
これまで数々の漫画やラノベで、主人公がヒロインにそう罵倒されてきた。
しかし、ノックは叩く回数がより重要になってくるとは、あまりヒロイン達には知られていないようだ。
ノックは間違っても適当に二回叩いただけで終わらせてはいけない。それはトイレ用の叩き方だと、世界基準で定められているからだ。
例えば、とある若き会社員が社長室に入るときに、ドアを二回ノックしたとしよう。
すると中から「アンタってば、ドアの叩き方も知らないわけ!? 適当にノックすればいい訳じゃないのよこの変態!」(意訳)と、こんな風に社長から説教を喰らってしまうのである。
僕はそんな礼儀知らずではない。これでも紳士を自負している。だからノックをする時は必ず、目上の人用の四回と決めている。これだったらハズレがない、手堅い回数だ。迷ったらとりあえず四回叩け。
と言うわけで、チミ先輩とお喋りしてからやってきた部室のドアで実践してみよう。
コンコンコンコン。
「やー、前から思ってたけど、同輩くんは外人さんみたいにノックが多いよね」
「……」
思わず振り返ってしまった。
後ろに居わすチミ先輩が、無垢な笑顔で、なんてことないように、そう言いなすった。いや、確かに海外の映画やドラマでやけにドンドコ扉を叩いているシーンとか偶に見るけど、だからって僕を外人扱いするのは……。
まさか、尊敬するチミ先輩が、ノックのマナーを知らないなどと……いや、待て。
――これはもしや、試されている……?
チミ先輩はあえて無知を装うことで、僕の知識が付け焼き刃でないかどうかを見定めようとしているのか? いや、そうに違いない。
「なるほど……先輩のご意思、この天野、しかと受けとりました」
「?」
尊敬する先輩が求めるなら、身命を懸けて答えるのが後輩の務めってものだ。チミ先輩が不思議そうに首を傾げているが、なにも問題ない。全て分かっておりますとも。
僕は意気込んで万国共通プロトコールマナーの知識を披露しようとしたが、それははからずも中断されることになった。
背後でガチャ、とノブが回る音と共に、部室のドアが開いたのだ。
「――あ、やっぱり天野くんだった。ノックしても入って来ないから、不安になって見に来たんだけど……どうしたの?」
――女神、降臨――
不意に部室から現れた女神の後光が差さんばかりの美貌を直視した僕は、そのあまりの美しさに――目を焼かれた。
僕はクリ○ンの太陽拳をくらったドド○アさんみたいに、廊下をのたうち回って悶えた。
「やぁ、こんにちはグラスハートくん。今日は顔の血色がいいじゃないか。さてはいいことがあったな?」
「あら、こんにちはチミちゃん。そ、それより天野君が大変な事になっているのだけど……」
「いやなに、ラ○ュタごっこをしているだけだよ。今日のお昼はそれで盛り上がったからね、恐らく大佐のモノマネさ!」
微妙に違いますチミ先輩。そしてこんにちはグラスハート先輩。
先輩方が楽しそうに歓談している間になんとか視力を回復させた僕は、改めて今日も女神の美しさを、もう一度両目に、しかと焼き付け直す。
おお……その肌は処女雪のように穢れなく、その御髪は夜空を流れる星々のように白く煌めき、そのご尊顔は美の神が定めた黄金比かの如く、下界に住む我ら下々の心を魅了してやまない。
……気づけば、膝を折っていた。人間、人智を超えた存在を前にすると、祈ることしかできないのだと、そう悟った。
嗚呼、神はいた。この地上に居られたのだ!
その姿を眼にして、僕は、癒された。安らぎを感じた! 神に愛されていたと気付いたとき、人はこんなにも救われるのだっ……!
僕は歓喜の涙を流しながら、女神に挨拶した。
「ちわッス、グラスハート先輩!」
「ふふ、ちわっす、天野くん。今日も元気ね」
目映い女神の微笑みが、賤しい僕を照らしてくれる。
今日もいいことありそうだ。
廊下に膝をつけてたら汚れると女神な先輩に促されて、僕らは部室に入った。
◆◆◆
グラスハート先輩の長い髪は、真っ白だ。
先に誤解がないように言うが、この世界はギャルゲーの世界と違って、女子の髪が十人十色なんてことはない。
染めてもいないし、髪の毛を引っ張ってもカツラのように取れたりしない。グラスハート先輩の白髪は正真正銘、本物だ。
元々は日本人らしく黒かったらしいのだが、身心を脅かす過剰なストレスに長年曝され続け、気づけば総白髪になってしまったのだとか。
そのストレスの原因は――イジメだ。
信じられないことに、先輩のそのあまりの美しさに、身の程知らずにも嫉妬した女子のグループが始めたらしい。
そしてそのイジメは、いま現在も続いている。
当時、先輩がこの事を打ち明けてくれたとき、それを聞いた僕は、当然、憤慨した。尊敬する人を貶められて、憤らない人間はいない。少なくとも僕はそうだった。
然るべき落とし前をつけようと、怒髪天を突きがら顔を真っ赤にして即座に行動に移そうとした僕を、しかしグラスハート先輩は止めた。
グラスハート先輩は、凶器を片手に件の女子グループを血祭りに上げようとする僕の腕を必死に掴みながら、「それでは何も解決しない。やられたからやり返したという、事実だけが残ってしまう」と、正論で僕を諌めてきた。
だが僕は、それは傍観者の詭弁だ、と抗議した。
それは被害者であるはずの先輩の口から出てていい物ではない。
「いじめは、いじめられる側にも問題がある」などと、どこの馬鹿が言ったのかは知らないが、そんなのはドブにでも捨てて、とにかく自分に歯向かった敵は殺せ、というのが、当時の僕の心情だった。実際、中学の時はそれで上手くやれていた。僕が今も警察に捕まっていないのがその証拠だ。
もちろん今は違うぞ? 今は間違いを認めてちゃんと改心している。当時は荒れていたんだよ。
しかしそんな若気の至りに走る僕の言論を、グラスハート先輩は優しく説き伏せるように、こう言った。
「確かにそうかもしれない、私が言っているのはただの綺麗事かもしれない。けど、私はそれが間違っているとは思えないの。だから私は、彼女たちの間違った行いを正当化させないために、同じ事をやり返すなんてしたくない。それに人間って、間違いにはいつか気付くものでしょ? いつか彼女たちが間違いに気づいてくれたら、私はそれでいいのよ」
そのとき先輩が浮かべた、哀しげな、しかし全てを許す慈悲の微笑みを見て、僕は生涯の忠誠をその笑みに誓ったのだ。
こんな人が居るのかと、まだまだ世の中も捨てたもんじゃないなと、らしくもなく感動した。
――だからいずれ、然るべき手段で先輩の敵は葬る。
こんなに慈悲深い先輩の教えを未だに理解出来ない連中など、もう生かす価値は無いだろう。
美と慈愛の女神の化身であらせられるグラスハート先輩は、人間に寛大であるが、世の中には善人がいれば、悪人もいるのだ。そして奴らは紛う事なき悪だ。悪はヤバい、だから殺す。女神の第一使徒である、この僕がやらねばなるまい。僕には敵を許すほど慈悲はない。全て女神に捧げた。
だが実行するにもまず、綿密な計画が必要だ。悪いヤツらを倒したヒーローが豚箱行きなんて、ちびっ子も笑えない展開だろう。だから完璧な、サツの目さえ欺く、完全なものが必要だ。密室に仕立て上げればなお良し。
今日も今日とて、部室であーでもないこーでもないとうんうんと唸りながら計画を練る僕に、グラスハート先輩とお茶してたチミ先輩が、ちょこちょこと小さな歩幅で近づいてきた。歩き方一つ取ってもチャーミングなお人である。
「同輩くん、また悩み事かい? 考えすぎはよくないよ、ほら、チョコでも食べて、少し頭を休ませたまえ」
舌ったらずの可愛らしい声で、チミ先輩が板チョコの包み紙を差し出してきた。
よく見れば、先輩の口元にチョコの欠片が着いている。てか、チョコにめっちゃ歯型付いてる。
自分のお菓子だろうに、僕が思い悩んでいるのを見て、惜し気もなく分け与えてくれるその気遣いに僕は感謝した。
「ありがとうございます、チミ先輩」
「なーに、先達として当然の事をしたまでだよ。きみが何をそんなに悩んでいるのかは知らないが、無事に解決するように今夜は流れ星を探してお願いしておくよ」
そうにこやかに笑うチミ先輩は、グラスハート先輩の事情を知らない。
話すべきではないんだ。この小さく可愛らしい先輩は、正義感で溢れている。
もしグラスハート先輩がイジメられてると知ったら、チミ先輩は無謀にも突撃していくだろう。相手が誰かを聞かずに。……それぐらい、正義感が強いってことだ。
信頼している先輩を騙すような後味の悪さを感じつつ、僕は頂いたチョコを口に運んだ。
むっ、これビターかっ……? 予想外だ……流石先輩、大人の味覚だ。
愛らしい我が校のマスコットな先輩の口元をポケットティッシュで綺麗にしながら、口中と心中に漂う異なるダブルの苦味を噛み締めていると、チミ先輩の肩越しに、微笑ましそうに笑みを向けてくるグラスハート先輩と目が合った。
――安心してください。貴方の敵は必ず消します。
そんな思いを込めて、グラスハート先輩に微笑み返したあと、僕はチミ先輩に向き直る。
「重ね重ね、ありがとうございますチミ先輩。先輩の期待に添えるように、必ず……必ずや、全て解決してみせます」
「うむ、その意気だ同輩くん! 悩みなんて吹っ飛ばしてしまえ!」
先輩の激励を受けて、僕はプロローグで早くも色々な覚悟が固まっていくのだった。