期末テスト二日前 〜紫峰院冥亜〜
夏を謳歌する蝉の声が、青い空に高く響く、学園の昼下がり。
膝裏まである黒い髪を靡かせた着物姿の少女は片手で庇を作りながら、神秘的な青紫の両目を恨めしそうに細め、じりじりと照り付けてくる太陽を見上げた。
「ふぅ……、あちゅ――」
噛んだ。
「んっん……。あつい……。……ばか」
紫峰院冥亜は、弱々しい風鈴の音のような、今にも消えそうな声で罪のない太陽を罵った。
現在、冥亜が立っている場所は、広大な学園の敷地内に点在する使われなくなった古い学園施設のうち、漫研が勝手に占領していた木造の元学生寮の玄関前だ。
つい先程、冥亜と天野が二人がかりで襲撃し、制圧が完了したばかりだった。
冥亜がうーうー悲鳴をあげながら寮の中に戻って照りつける日射しから避難すると、丁度彼女の腰巾着の中から、スマートフォンの呼び出し音が鳴った。
緩慢な動作でスマフォを取り出した冥亜は、少し操作にあたふたしながらも、なんとか電話に出た。
「もし、もし……? わたし、冥亜」
「……でなきゃ困りますわ」
電話の相手は、お嬢だった。
「まだ電話は使い慣れませんこと?」
「機械はきらい……すぐ壊れるし、フクザツ」
冥亜は電話口にふて腐れながら、古ぼけた木造の壁にもたれ掛かった。
開けっ放しの入口からささやかな風が入り込んできて、うっすら汗を浮かせた額の上の切り揃った前髪を乱していく。冥亜は人心地がついたように小さく息をつき、目を閉じて涼を取った。
「首尾はどうです?」
「制圧は、終わった。何人か捕らえて……いま、後輩くんが尋問してる」
今回の一件は、一向に姿を見せない連合の長に痺れを切らした天野が、居場所を敵から聞き出そうと発案したのが切っ掛けだった。その彼は、二階で捕虜を集めて尋問している最中のはずだ。
「ちょっと待って……んっしょ」
壁からおっとり身を起こした冥亜は、入口近くの傷んだ階段をギシギシ鳴らしながら昇ると、二階の廊下の奥を壁から覗き見た。
「――おんどりゃぁぁあ!! 舐め腐っとんじゃねぇぞ!!」
「ぐあぁああぁっ!?」
「おッしゃあ!! 次はお前の番だゴラァ!! 遠藤はどこだ、あぁン!? 人語を忘れる前に吐けぇぇえ!!」
「ひっ、ひぃぃぃ!?」
外の蝉にも負けない鳴き声が、廊下の一番奥の部屋から、冥亜の居る場所にまで木霊してきた。
「んー……、まだかかりそう」
「そうですか……。天野くんが手こずるとは、思っていたより敵の結束は固いようですわね」
「……しゃべる前に壊してる」
風通しの良い一階の入口に戻りながら、冥亜はボソッと呟いた。
「はい? ご免なさい、電話が遠かったようで聞き取れませんでしたわ」
「大丈夫。あんまり、かからないと思う。たぶん?」
元の場所に戻った冥亜は、再び壁にもたれ掛かりながら板張りの床に座り込むと、鬱陶しそうに眼鏡を外して、無造作に床に置いた。
なにも遮る物がなくなった、とても作り物とは思えない耀く青紫の瞳を天井に向けた冥亜は、釣り下がっていた裸電球をジッと見つめ始めた。
「お嬢。後輩くん、いらいらしてる」
「テスト勉強があまり捗っていないようですわ。きっとそのせいでしょう。漫画研究会への対応もそうですが、昨日も何かあったようですし」
「……お嬢には話してるんだ」
立てた両膝の上に顎をのせた冥亜は、端正な顔を子どもっぽく膨らませて、分かりやすく不満を表にする。
確かに、自分と彼は出会って間もなく、なんでも話せるほど親しくなったかと問われれば、答えは否だ。
だがそれでも、気になっている後輩の男の子に先輩として頼って貰えないのは寂しいし、密かにライバル視している同学年の部活仲間にその差を見せつけられると、ムカムカもしてくる。
「もしもし、紫峰院さん? どうかなさいましたの?」
「またかけ直す」
「え? あ、ちょっとお待ちに――」
口を尖らせて一方的に通話を切った冥亜は、スマフォを巾着に戻すと、何かから目を逸らすように膝の間に顔を埋めた。
「お嬢に、悪いことした……」
――そうなると解っていたのに、体は勝手に動いて電話を切っていた。
自分の中で燻る、知らない感情がそうさせた。
小さいけど、黒くて、掴みとれない煙りのような、モヤモヤしている不快な何か。
今まで何事も淡泊に感じられた人生だったのに、最近はこういった制御の効かない感情に振り回されてばかりだった。
始まりは、後輩の彼と出会った、あの会議のとき。
一目見て、彼に何かを感じた。
けどそれが解らなくて前髪の隙間からじっと見ていたけど、我慢できずに思わず飛び掛かって近づいてみたら、彼からとてもイイ匂いがした。
石鹸と、血の匂い。今まで嗅いだことのない不思議な組み合わせ。味はよくわからなかったけど、それに加えてとてもいい動きをしていたのも、彼に興味をもった理由の一つだろう。
その時はそれで納得していた。なのにお嬢に「性的な目」と言われてとても恥ずかしかった。あれから帰って一晩中鏡で自分の目を確認するくらいには。
でも、あれから彼と接してきて、それらが理由で彼に興味を抱いたわけではないと気が付いた。
たとえば、彼に抱き着いたら脈が速くなる。
彼の匂いを嗅いだらもっと速くなる。
彼と手を繋ぐとそれだけなのに嬉しくなる。
ここまでやって、ようやく自分のこの感情が世間一般で何と呼ばれるものか、理解できた。
自分は彼に、一目惚れしていたのだ。それも、初恋の。
……どうりでわからないはずだった。
今まで人を好きになった事なんて一度もなかったのに、なぜ突然彼を好きになったのか、急に自分のことがわからなくなってしまった。
……でも、悪くない感情なのは、確かだ。
いままでの無機質な日常に戻りたいとは思えなくなるくらいには、心が動くという感覚は新鮮だった。
結局いまだに一目惚れした理由は解らないままだが、それもきっと、彼と接していればいつの日かわかる日が来るだろう。
漫研には特に未練はない。あの背の高い人が彼を警戒して、護衛の為に一時的に雇われていただけに過ぎない。後で“お家の人”には怒られたが、それもどうでも良いことだ。
あの日から自分の世界は変わった。
彼をとおして見る世界は、何もかもが色鮮やかに見える。
“すまほ”とか言う興味のなかった機械を買い求めたのも彼の影響だ。
離れていても相手と話せるのは良いが、少し複雑過ぎて扱いづらい。新しい世界には、良いところもあれば、悪いところもあった。
そして今回は、悪いことだ。
「……これは、たぶん、嫉妬」
なけなしの知識を引っ張り出して、手探りで導きだした答えは、そんな醜い感情の名前だった。
――そう、自分よりも彼に信頼されているお嬢に、わたしは嫉妬した。
「ふふ……これが、嫉妬かぁ」
だが、気づけば顔には笑みが零れていた。
これは、悪い感情だ。
ぐるぐるして気持ち悪いし、底無し沼に嵌まったような不安定な気持ちにさせてくる。
だが――悪くない。悪くない感情だ。
だってこれは、無感情だったわたしが、それだけ強く彼を想えている、何よりの証拠になるのだから。
自分の心がこんなにも生き生きと動く日が来るとは、思いもしなかった。
これからも彼の近くにいれば、もっと多くの感情を貰えるだろう。より強い感情にも出会えるだろう。
今まで線画だけで描かれていたキャンバスを、彼が鮮烈な色で染めあげてくれると、なんの根拠もなく確信していた。
無地だった自分の心が、彼の手で好き勝手に塗り潰されていくその感覚は、まるで彼に蹂躙されているような、背徳すら覚える甘美な瞬間でもあった。そしてそれが何よりも――
「……きもち、イイ……」
「――はい? なんですかメア先輩?」
「ッ!?!!」
不意に耳に入ってきた声に驚いて少し赤らんだ顔を上げると、階段の上から、意中の彼がこっちに不思議そうな顔を向けて降りてきていた。
「あ、う……なんでも、ない、デス……」
冥亜はわたわたと慌てて着物の袖で目元を隠しながら、急いで眼鏡を拾いあげて掛け直した。
「そうですか……? あ、一人でお待たせしてすみませんでした、退屈してましたよね?」
「う、ううん……?」
せっかく涼んだというのに、冥亜は日差しとは別の熱さが体に灯るのを感じながら、ぶんぶんと首を振る。やましいことをしていた訳でもないのに、彼の意識を自分からそらしたくて、器用ではない舌を回して必死に自分から話題を変えにいった。
「か……会長の居場所、解った?」
「それが、やつらも知らないみたいです。ここはハズレですね、下っ端しかいませんでした」
残念そうに眉を下げた天野の顔は、次の瞬間には慌てたような顔に変わって冥亜に駆け寄った。
「ていうかなにやってるんですかメア先輩!? こんな汚い所で座り込んじゃダメですって!」
そう言って座り込んでいた冥亜の肩を掴んで強引に立たせると、着物の袖についた埃を手早く落としていく。
「あーもう、着物が……。先輩は髪も長いんですから、気を付けないと駄目ですよ? せっかく綺麗なんだから、勿体ない」
「そう……?」
片手で無造作に長い髪を一房掴み取った冥亜は、さっきまであった熱が急に冷えきっていくのを感じた。
(おかしい……。後輩くんに褒められているのに、あんまり嬉しくない……ああ、拗ねているの、わたし)
褒められているのになんだか空虚に感じてしまうのは、そのせいだ。
髪は特に手入れをしているわけでもなかったし、お嬢との差を知ったあとだから、尚更後輩の彼に反抗的になっているんだろう。
悪くないと思ったのに、なんて面倒な感情だろう。もう布団の中に潜って寝てしまいたくなる。
鬱屈した感情を抱えながら髪を指先で弄っていると、後輩の彼はポケットから取り出した何かを差し出してきた。
「これ貸しますから、髪を整えてください」
「……クシ? 持ち歩いているの?」
当たり前のように差し出されたクシに、冥亜は不思議そうに首を傾げる。彼がクシを持ち歩いているというイメージが、しっくり来なかったのだ。
「当たり前です。メア先輩と一緒の時は何時も持ち歩いてますよ」
「……なんで?」
「なんでって、こういう時にメア先輩が困らないようにですけど?」
さも当然とばかりに言い切った天野の顔には、なんの迷いもなかった。
「……それだけで?」
「先輩の後輩ですからね、僕にとっては十分な理由です」
「……そう。……そっか」
その言葉を聞いて、何か考えるようにうつむいた冥亜は、意を決したように再び顔をあげた。
「後輩くん。わたしの髪、梳かしてくれる……?」
◆◆◆
「ほんとにいいんですか……? 僕なんかが触って」
「うん……触っていい」
それじゃあ失礼して、と言って、天野は冥亜の髪にクシの歯を入れ始めた。
「はぁー……、やっぱりすごい手触り良いですね、先輩の髪」
冥亜の後ろ髪を壊れ物を扱うように持った天野が、感嘆しながら髪を梳かしていくのを、冥亜はやや緊張しながらも、顔には出さずに受け入れていく。
「……気に入った?」
「ずっと撫でていたいくらいですよ」
「そう……、――じゃあ、お嬢の髪は、どう思う?」
褒められ続けてて妙な自信がついたのか、それともあの燻っていた黒い感情が振り返したのか、冥亜の口を突いて出たのは、そんな妙な対抗心だった。
だが、直ぐになにを張り合っているのかと思い至り、今の言葉を取り消そうとしたが、先に天野が口を開いた。
「お嬢の髪は……ドリルですね」
「……へ?」
なんか不思議な単語を聞いた気がして、冥亜は思わず後ろを振り向いていた。
「あのドリルがフルフル動く度に、先っぽを引っ張ってみょんみょんしてみたい衝動に駆られるんですよね……畏れ多くてしませんけど」
すごい真面目な顔でそう語るのを聞いていた冥亜は、思わず笑ってしまった。
「ふ、ふふっ……」
「え、メア先輩? なんか、おかしかったですか?」
「うん。おかしい。後輩くんは、おもしろい人」
「ボケたつもりはないんですが……」
困ったように呟く後輩の顔がおかしくって、冥亜はクスクスと鈴が転がるように笑い続けた。
気づけば、さっきまで冥亜の胸の中で燻っていた嫉妬の感情は綺麗になくなり、また新しい別の感情が生まれていた。
いまのこの気持ちなら、素直にさっきのことをお嬢に謝れるだろう。
そう素直に思えた冥亜は、まだまだ無地が多い自分の心に、生まれたばかりの透き通った綺麗な色が加えられるのを感じながら、今日の空のように晴れ晴れとした笑顔を彼に向けた。
「これからも、よろしく。後輩くん」
【今日の天野くんの勉強時間: ?時間 = 残り、??時間】




