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君は不思議



きちんと周囲を見渡し、誰もいないことを確認した直後に現れたそれ。人の形をしているのに黒いクレヨンで塗り潰し尽くしたような重たい黒。その距離は数メートルだっただろうか。


僕の叫び声に驚いて兄さんが振り向くが、そこにはもうあの黒い影はいなかった。



『叶!? どうしたんだ、お前…! 顔が真っ青だぞ…一体何を見たんだ!』



傘を落として僕の肩を掴む兄さんの声を聞きながらも僕はその問いに答えることが出来なかった。恐怖で震える口から言葉が(つむ)げずただただ震えることしか出来なかった。



『春雛先輩…! 先輩!』



暫くして森の中から飛び出して来たのは数十分前に別れた雨座だった。


合羽(かっぱ)と私服に着替えて長い髪も一つにまとめており、余程(よほど)慌てて来たのか彼女の背中には小さな籠が背負われていて収穫途中と思われる野菜や果物が顔を出している。



『突然先輩の悲鳴が聞こえて…お二人共ずぶ濡れじゃないですか、早く家に…!』



『そう…そう、だな…よし。叶、歩けるか? 足が震えているな…仕方ない、家まで背負って行くからな』



いい歳をして兄に背負われる。



なんて情けないのかと項垂(うなだ)れるが、肝心(かんじん)の僕の足は使い物にならない。数年ぶりに兄の背中に厄介になると僕は相当酷い顔をしていたのだろう。駆け寄った雨座が僕の左手をそっと握ってくれた。彼女の手は道中(どうちゅう)走って来たから冷たかったけど兄さんと雨座の二人分の体温を感じられて心の底から安堵した。



『ありがとう…雨座』



『いいんです、先輩。私は合羽を着てますからちゃんと傘を差して下さいね。家に着いたらすぐに温めて下さい…先輩、凄く冷たいしまだ少し震えてます』



頼りになる後輩の言葉に頷き、僕はゆっくりと背後を(うかが)う。そこには何もいない…静かな森があるだけで僕の見たものはまるで幻だったのかと錯覚(さっかく)しそうになる。


いや、幻だったら良かった。



雨座と繋いでない右手はカタカタと未だにあの時の光景を思い出しては勝手に震えてしまう。僕の視線を追って雨座も振り向くがそこにはやはり何もなかった。





家に着いてから少し落ち着きを取り戻した。


しかし兄さんは念のために無理はするなと冷えた体を温めるため風呂掃除に向かった。僕も着替えてリビングに行くとバスタオルを持った雨座が出迎えた。得意げな表情でバスタオルを持つ彼女を見て


ああ。あれは任務を言い渡された顔だな、


と察した。



『兄さんに言われたの? 雨座はお客様だし僕の髪を拭いたりしなくてもいいのに…』



『いーえ、お世話になった先輩の一大事なんです。恩返し…そう、恩返しなのです。だから先輩は黙って後輩に拭かれてて下さい』



上機嫌(じょうきげん)で鼻歌を歌う雨座。どうやら恩返しできるのが嬉しいらしい。正直、こんなへっぽこな先輩の面倒を見るなんて僕なら微妙な気分だ。



不思議な後輩。



僕の雨座に対する印象は、まさに形容(けいよう)し難い不思議な一言に尽きる。



『風呂の準備出来たぞー、叶は入って来な。雨座は時間大丈夫なら家で飯食ってくか?』



兄さんからの提案を聞き、雨座はパッと顔を上げる。是非にと申し出た彼女は勢いで持ってきていた野菜たちを抱えて兄さんと一緒に台所に立った。


我が春雛家には両親がいるのだが二人共帰りは遅いので料理はほぼ兄さんが(こな)す。聞けば雨座も今はお婆ちゃんと二人暮らしで今日は泊まりで出掛けてしまったらしく丁度夕飯の材料を畑に取りに行ったところで僕の悲鳴を聞き、急いで駆け付けてくれたらしい。



家庭的な二人によって夕飯はすぐに完成し、雨座から貰った果物までついた豪華メニュー。とても有り合わせで作ったの、という言葉が信じられない。僕は料理は壊滅的(かいめつてき)に出来ない、無理である。ちなみに弟も同じだ、料理なんて“焼く”くらいしか出来ない。目玉焼きだの焼肉だの野菜炒めだの、初心者コースくらいだ、見た目も保証しない。




『それで…叶。


お前は一体何を見たんだ?』








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