白洋と瀧阿
明るい満月に照らされながら歩く道は、いつもと変わらないものだというのにまるで知らない道を歩いているような錯覚さえ感じてしまう。いつも以上に深い夜に電灯も少ない道ながら月明かりが妙に元気なせいで幻想的でもあるのだ。
『全く…帰るころには日付けが変わるんじゃないのか』
自転車も生憎と修理に出していて徒歩で自宅まで帰らなくてはならない。歩くことは嫌いではないのだが、今日は特別肌寒い日でこの時間帯だ。6月に入ったというのにこの異常なほどの寒さ。スーツの上にもう一枚何か羽織りたいほどだ。
『…まさか。こんな時間に』
河川の近くを歩いていると、少し向こうに一つの人影を見つけた。こんな時間帯だが別に人がいるのはおかしくはないのだが問題はその人が女の子でしかもまだ少女だということだろう。
小さな体にとても長い髪を持つ女の子。服装はカーディガンに7部丈のズボンを穿いていて長い髪は緩めに三つ編みにされた子だ。
普段ならそんな女の子と関わる機会もないしあまり関わりたくないのが本音だが、そうも言ってられない。時刻は深夜11時を過ぎているのだ。あんな少女が歩き回るには危険な時刻。だから即刻家に帰すよう話しかけたのだ。
『君、こんな夜中にどうしたんだ。もう家に帰りなさい』
少し離れた場所でそう言ったが、彼女は全く反応しない。普通このくらいの距離で聞き取れないはずがなかったので何か変だと思って更に彼女に近付いた。しかしその途中で彼女は何を思ったのか意を決したように河原に向かって走っていったのだ。
『…っ!? 待ちなさい…!』
幸いなことにすぐに彼女の手を取りその足を止めることに成功した。
それでも河原に向かいたがる少女に危ないから、と忠告するも彼女は首を振って河原に向かおうとするのだ。
『こんな夜、川に近付いては危ないだろう! 何故そんなに…何か落としたのか?』
『…っもしかしたら…まだ……っ!』
雲に隠れた月が、顔を出す。
瞬間
響いた咆哮が……町に轟いた。
獣とも違う。私は今までこんなにも殺意に溢れ、憎悪に満ちた空気に触れたことはない。今まで明るくて幻想的な、なんて言っていた空間はなく……禍々しい何かの気配に溢れたのだ。
けたたましい、何か……なんの言葉なのか、最早言葉ともわからない何かを叫びながら狂ったように飛んで、跳ねて……地面を叩いたり身体を叩きつけたりするそれは、人だった。
何も衣服を身に付けていない、人。
常軌を逸したその存在に私はもう、身体中に鳥肌が出て呼吸も酷く乱れて治らなかった。目の前の存在は確かに人の姿をしているが飛び跳ねているあの跳躍力はもう人間から逸脱してしまっている。
カタカタ震えながらふと、少女を見た。彼女は泣いていた。目を見開きながら大粒の涙をぼたぼたと零して泣いていた。そんな少女を見て私はやっと我に返って現実に目を向けることが出来た。とにかく今はあれから逃げなければならない、この子を連れて逃げなければ。
『逃げるぞ! 来るんだ!』
彼女の手を取って走るルートを考える。駅は駄目だ、既に終電も過ぎて時間が経ってしまった……もう閉まっている頃だろう。住宅街も遠く、とにかく逃げることが先決だ。
手を引いて走ろうとするが、少女が走ろうとせずむしろあの化け物の方に手を向ける。
『何をしているっ…! 逃げなければ…あれはどう見ても化け物だぞ!』
『えい…か、くっ…栄、火君…!』
少女が発する言葉を遮り、私は彼女を抱き上げて走り出した。必死に化け物に向かって声を上げる彼女はずっと“えいかくん”と叫んでいた。去り際に一度だけ……私は、振り返ったのだ。
その時に見たものは、もうあの人間の姿はなかった。
代わりに道路に立っていたのは黒に塗り潰された顔を持つ……黒い、人影だった。
何分も何十分も少女を持ち上げたまま、走り続けた。どこまで逃げたらいいのか……振り返ったら、あれがいたら……と思うと暫く振り返ることも出来ず私は走り続けた。
やがて落ち着いてから少女を降ろすと、彼女は泣きながら俯いたままでどうしたものかと私はずっと頭を撫でてやることくらいしか出来なかった。
『君は……あれが何か知っているのか』
そう問いかけると暫く泣いていた少女は顔を上げてくれた。初めて正面から顔を見ることが出来たが、やはりまだ幼い顔立ちで外国の血が混じっているのか薄い色素の瞳は悲しげに私の姿を映していた。
『…私の、恩人…です。私……彼に、助けもらったのに…っ、助けたいのに……っできなくて』
ワッと泣き出した彼女は、どうやらあれの正体に心当たりがあるらしい。しかし私には……はたしてあれが人間なのかと疑問が湧いて仕方ない。どうしたらあれが人間だと言える。人間があんな化け物になるなんて、あり得ない。聞いたこともないことだ。警察に話したところで馬鹿にされるのが関の山。
『…とにかく、今日はもう帰ろう。あのことについては忘れるんだ。…話したところで同じように見た私しか信じない。どうしても気になるなら明日、私はまた通勤であの場所を通るから私が見ます。だから君はもう近付いては駄目だ、いいね?』
鞄から出したハンカチで涙を拭ってやりながら言い聞かせると、彼女は暫く泣いているばかりだったが小さく頷いてくれた。不安そうに身体を震わせながら歩く姿が不憫で手を引いてあげながら結局彼女の家まで送ってやった。
何度も礼を言う彼女と挨拶を交わして踵を返すと、ようやく私も自宅へ帰ることとなる。
そして次の日に迎えた真実は、残酷なものだった。
通勤途中で私は彼女との約束通りにまたあの河原に差し掛かったのだ。しかしそこに広がっていた光景は黄色いテープに……何人もの野次馬。青いビニールシートに、警察官。
走って走って……彼女の家に辿り着いた。遅刻なんてどうでもいい……ただ、あの子に伝えなければと。
家が見えた時、彼女は玄関に座っていた。私の姿に気付いた彼女は暫く私の姿を見ていたが……またあの綺麗な瞳からぼたぼた涙を落とし始め、声もなく泣き出した。支えてやることしか出来なかった。やっと声を上げて泣けた彼女の声は響き、悲しげな泣き声が心に刺さる。
後に知った、亡くなった生徒の名前は統木栄火。彼女が叫んでいた人物の名も……えいか。あの黒い人影が亡くなった統木栄火君であるかはわからないが、限りなくそうであると思う。誰にも信じてもらえないと思っていたあの黒い人影だったが、後に何人かが目撃したという。
あんな姿になってまで、彼は一体どんな思いで死んでいったのか……あんな姿になってまだ、何がしたいというのか。
あの時
私は、瀧阿さんの手を引いて逃げなければ……何かが変わっていたのか。考えても仕方ないことだが私は未だ、そのことを考える。
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次話からは、叶一郎視点に戻ります。




