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死というものについての解釈

作者: 朝倉新五郎

 一度生まれ滅せぬ者のあるものか。


 生きるというのは現象であって存在ではない。

 

 しかし生物とは存在ではないか。

 そういう声もあるだろう。


 間違ってはいないとは思う。


 思うということもそうかもしれない。

 我思うゆえに我あり


 そういうことか。


 面白い。


 しかし物理学的に考えるならばどうだろう?


 最小単位の素粒子、いや分子で考えてもかまわない


 そこには生死は関係無く存在する


 存在とはそういうことだ。


 ゆえに、生きている、それ自体は現象にすぎない。


 よく生きよう、楽しく生きよう

 そういう言葉を時々耳にする。


 よく死のう、楽しく死のう

 これは未だ聞いたことはない


 面白い。


 偶然生を受け、必然に死ぬ

 原因と結果に過ぎないのに


 昔から常に人々の脳を支配してきた


 明日雨が降るのか晴れるのか

 確率の問題ではないが、予測であろう。


 それに比して生死は確率ではない

 予測でもない

 必ず起きることである。


 死とはどういうことか

 生の終わり

 存在の喪失

 他には?


 やはり分子レベルで

 そう考えてはいけないのだろうか?


 何をもって違いを知ればよいのか


 究極の神は物理法則であるのに


 生死とは元々そこにあるもの

 考えることすら無駄に思えるような

 そんな人間が決めた現象なのだろう。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 生を持ったものは、必ず死ぬ。消滅なのか、魂は残るのか、人それぞれ考え方が違うでしょうが私は、その時がきたら、苦しまず逝きたい。だから楽しく死にたいになるのかな。 [気になる点] なし [一…
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