さようなら、昨日の僕
take outという喫茶店の店主である侑李はカウンターを挟んで一人の男の悩みを聞いてあげている。毎週金曜日の日課だった。
「そんなに辛いなら死ぬのも良いかもね!死んで生きるだよ!」と馬鹿真面目に彼女は言った。
「死んだら生きれないぞ…」
彼女の言葉に呆れたかの様に溜息を吐きながら、僕は喉につっかえた言葉を珈琲と共に飲み込む。すっかり冷え切ってしまった珈琲は鼻にツンとくる酸味がした。
(「それもいいかもしれないな。」)
僕が本気で死にたいと口にしたら彼女はなんて言うだろう。一緒に死んでくれるだろうか。
「私のお店でそんな暗い話しないでよね、お客さんいなくなっちゃうじゃない。さあ、帰った帰ったぁ〜!」
と言いながら、カップを取り上げ新しい珈琲に取り替えてくれる。
香ばしい豆の香りが湯気を通して鼻腔を刺激した。僕は一杯だけ飲んだら帰るよと言った。
「今日お店終わったらお家行くね。」
彼女は他のお客さんには聞こえない程度の声でこっそりと僕に囁いた。僕は驚いた。普段ならそんな事はわざわざ言わないからだ。分かった、と声を絞り出したが脇から冷汗が出ている。
私が死のうと考え始めたのは何時からだろう。中学生の頃、虐めにあった時か。大学受験に失敗した時か。就職活動を自ら諦めてしまった時か。
いや、違う。今朝起きた時からだ。
ふとそんな事を思いつき、具体的な計画を立ててしまうくらいには僕は本気だったのだ。
計画とはいえ、実に簡単なものである。
適当なホームセンターで包丁を購入し、お腹に刺す、それだけの簡単な事だった。
僕は自殺するその瞬間を想像し、なんだ死ぬのはこんなに簡単な事だったのかと少し笑う。
パンツのポケットに入っているくしゃくしゃになったタバコを伸ばし、火を付けた。
その煙を深く吸い込んだ時、肺から血管を通って全身に行き渡る様な感覚を覚え7分間だけ幸せに浸った。
その時、自殺する前に侑李にプロポーズしようと強く思った。誠に勝手な話だ。プロポーズして自殺する男などどこにいるというのだ。幸せを迎えようとしている中で自ら命を絶つ男など馬鹿という二文字では表せない。しかし、一度決めた事を翻すつもりはない。
彼女のお店を出た時、営業が終わる前にまずは婚約指輪を買いに出かける事にした。店内は所狭しとショーケースの中にキラキラと光る指輪が陳列され、シャンデリヤの眩しい光とクリーム色の内装と相まって、二人の幸せな未来を表しているかの様だった。しかし、僕にはくすんで見えた。
やけに馴れ馴れしい店員に彼女との馴れ初めや外見、性格などを聞かれ鬱陶しかったが、正直悪くなかった。
ショーケースの中の指輪はどれも似た様なものばかりであったが、その中でも小さなルビーがちょこんと乗せられた銀色の指輪を見た時にその指輪が優しい光に包まれた様な気がした。照明のせいだろうか。
「彼女を幸せにしてあげてくださいね。ありがとうございました〜!」
僕は結婚指輪をポケットにしまい、タバコに火をつけながらしばらく幸せの余韻に浸った。
午後7時。僕の部屋に来た彼女はポニーテールにしていた綺麗な長い黒髪を解き、僕が座っていたソファの隣にちょこんと腰掛けた。
「なんか今日いつもと違うよ、どうしたの?」
彼女はどこか不安そうに尋ねた。
「侑李、明日遊園地に行こうよ。」
お前は心配性だなと言いながら唐突に話を変えてみたが、僕が笑っている表情をしていたからであろうか、観覧車に乗りたい!と目をキラキラさせながら食いついてきた。
その翌日、午後4時頃から遊園地に行った。
閉園は5時なので侑李はなんでこんな遅くに来たのよとぶつくさと文句を垂れたが、なんだか貸切みたいでいいだろと言ったら満更でもない顔をしていた。次第に客の数もまばらになり、暗くなり始めた空の中でジェットコースターやメリーゴーランド、観覧車のピカピカと光る照明が競い合っていた。
期待と決意を込め足早に観覧車へと乗った。
観覧車が一番高い位置になった時、
「侑李、結婚しよう。そして僕と一緒に死んでください。」とハッキリとした声で言った。
彼女は火山のごとく顔を真っ赤に染め上げながら小さい声で「はい。」とだけ呟いた。
なぜこんな簡単に受け入れられたのだ。一緒に死のうと言ったのに。全て彼女は分かっていたのだろうか。安堵していた心に疑問という影が覆い被さった。
「侑李、一緒に死のうってのは一緒に自殺しようってことだぞ?」
きっと彼女は幸せに老後を過ごし死のうということだと勘違いしたに違いない。しかし、ほんの僅かな恐怖にも似た期待を込めて言った。
「わかってる。」
たったその一言で僕たちには十分だった。
その夜僕たちは、お互いを強く求め僕も彼女も黙って身体を重ねた。強く降り注いだ雨が強風と一緒に僕たちを揺らした。
その後、僕が一昨日考えた実に簡単な自殺方法を彼女に説明した。彼女は私がナイフを買ってくるから、あなたはケーキとお菓子を買ってきてと言われた。
これでは何かのお祝いみたいではないかと言うと、彼女は「まあまあ」とだけ言って静かに笑っていた。
翌日の午後8時、静寂に包まれた部屋で2本のロウソクの火が今にも消えてしまいそうに弱々しく揺れていた。彼女は満面の笑みを浮かべ、「ねえ、ふーってしていい?」と聞いてくる。
なぜこんなにも楽しそうなのか僕にはさっぱりわからなかった。ロウソクの火と自分の命とが重なり、彼女の口に溜められた息によってそれらは簡単に消し飛んだ。僕の決意も固まった。
ケーキを残さずに食べ、お菓子を頬張りながら(そのほとんどは彼女の胃に納められたが)、午後10時になった。
彼女は今までの雰囲気とは打って変わり真剣な表情を浮かべながらベージュの革でできた小さなハンドバッグから二つのナイフを取り出し、その一つを僕に差し出してきた。
「いっせーの、せっ!でお腹に深く刺そう。そんなに難しいことじゃない。僕を信じて。」
心臓は張り裂けんばかりに高鳴り、気持ちの悪い汗がどっと出た。
「大丈夫だよ。これで終わりだね。あなたのこと、、本当に愛してたよ。生まれ変わっても悩みでもなんでも聞いてあげるからね?」
彼女は最後まで優しかった。
「じゃあ、行くぞ……」
掴んだナイフは汗で今にも滑り落ちそうだった。 両手でがっちりと落ちないように固定し、深呼吸をしてもう後戻りできないことを感じる。
「いっせーの、せっ…!!!」
二人は勢い良く自らの腹部に銀色に鈍く輝く刀身を埋め込んだ。鮮血が腹部から溢れ出し、たちまち意識が遠のく。血が流れ出るのを逆らう様に体内を巡り、やがて口から溢れた。
強烈な痛みに体はぐらつき、焼け付く様な痛みとひどく冷えた様な感覚がしたーーーはずだった。
「あれ?痛く、ない…。」
ナイフを深々と刺し、血に塗れた腹部を恐る恐る見てみると、血など出ていない。ナイフは腹部に、、刺さっていない。
その時、一気に血の気が引いた。
彼女の方を見てみると、やはり同じだった。
「…どういうことだ…??」
彼女は小さく笑い、
「騙されちゃったね」とだけ言った。
ナイフをよく見ると刀身が柄の中に収まる精巧なおもちゃだったのだ。思考が現実に追いつかなかった。あれだけ死ぬ決意をしたのに。もうこの世には未練などないとさえ思ったのに。
全身に暖かな血の流れを感じ生きていることを実感する。それは恐ろしいくらいにーーー安堵している自分がいた。
「やっぱり無理だよ!死ぬなんて痛いじゃん、怖いじゃん!」
「死んで楽になることなんて絶対にないよ。諦めちゃダメ。逃げて良いことなんてない。そんなこと私が許さないから。」
涙が溢れた。彼女をきつく抱きしめ胸の中でずっと泣き叫んだ。
今までの漠然とした「死にたい」という気持ちは跡形もなく消え去った。多分、前の自分は本当に死んだのだろう。
今は清々しいとすら言える気分だ。
「死ななければ何しても大丈夫だよきっと、
どんなに辛くても一緒ならまた歩き出せる。」
彼女はそっと呟いた。
私は婚約指輪を渡し忘れていたことに気付き急いでポケットから出した。
「侑李、結婚しよう。そして一緒に死んでください。」
終