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第二章(1)

 生きて、と最後に母は笑った。その時には既に城壁は破られる寸前で、逃げ場などなかったと言うのに母は小さく幼いミシェルにそう言って笑っていた。国王と王妃が処刑される前日のことである。跳ねられた父と母の首は王城の前に晒された。


 ミシェルは怯え、シリルと手を繋いで王城の地下牢の隅で蹲っていた。もう何も見たくはなかったし、聞きたくもなかった。そんなミシェルに、貴女は逃げなさい、と姉は笑い掛けてくれた。どうやって、とぐずったミシェルを抱き締めて、彼女は、大丈夫、と慰めてくれた。姉は妖艶な美しさを持つ人だった。だがそれを彼女が武器に使った場面を見たのは、一度きり。翌日にはミシェルと姉の処刑を控えた晩のことだった。ミシェルに耳を塞いで息を潜めるように告げた姉が一人残されていた見張りの男に、牢の扉越しに声をかけた。何を話していたのか、今でもミシェルには分からない。だが直後に牢の扉は開かれ、それと同時にミシェルはシリルに手を引かれ、牢を飛び出した。


 絡まる足は自分のものではないようだった。国王専用の避難通路を利用して王城の外に逃げ出した。きっとシリルはその通路を姉から聞かされていたのだろう。逃げながら振り返った王城には火が放たれていた。燃える王城の地下には、姉がいる。助けに行きたかったのに、手を引くシリルの手はそれを許してはくれなかった。あの時、誰もがミシェルを生かそうと必死だった。必死だったからこそ、ミシェルは生きなくてはならなかった。生きて、生きられなかった者に報いなくてはならないと思った。


 そうしてあれから七年経った現在、ミシェルはヴァルナーにいる。そして、あの時王城に乗り込んできた騎士団に入団し、騎士の中でも精鋭のみが入ることを許される円卓の騎士に選ばれている。憎むべき相手は彼女の周りにいる。そうだというのに、彼らと会話する間、心がかすかに安らぐのだ。その心地に気付いたミシェルは思う。きっとアーサーに言われた通り今のミシェルにとっての居場所はここなのだろう。自分の感情に矛盾ばかりを覚え、気付けばミシェルは組んだ腕を強く握り締めていた。



「おい、レオ!」



 そのミシェルの耳に名を呼ぶ声が飛び込んできた。俯けていた顔を上げれば、目尻を吊り上げたエリオットの姿があった。



「何?」


「話聞いてろよな」



 エリオットはそう言って屈託のなく笑う。


 今日もミシェルは訓練場で騎士団の訓練に出ている。壁に背を預けて立ちながら彼女はいつものように騎士の指導をしていたのだが、いつの間にか物思いに耽っていたようだ。いつからエリオットが隣にいたのかさえ覚えていないことを考えると、きっと彼の話に生返事でも打っていたのだろう。



「何の話?」


「アーサー様が男色だって噂が流れてるらしいぜ」


「……まさか」


「お前とダンスを踊ったからじゃねぇの?」



 ミシェルはエリオットに言われ、数日前の出来事を思い出す。まだひと月も経っていないというのに、アーサーとワルツを踊ったことは随分と昔のような気がする。一方で彼が命を狙われた現場に出くわした夜は昨日のことのように感じた。


 あの日からアーサーとは顔を合わせていない。彼が男色だと噂話が立つくらいだから、彼が命を狙われているという事実はまだミシェル以外誰も知らないのだろう。


 ミシェルが黙り込むと隣に立つエリオットが小さく笑い声を立てて、軽口を叩いた。



「お前、女みたいに綺麗な顔してるからな」


「……馬鹿にしてるのか」


「冗談だろ?」



 そう言って首を傾げたエリオットは、それでも笑っていた。その彼にミシェルもつられるように笑えば、彼は言う。



「まあ、いつもの貴族たちの暇潰しだろうけどな」


「でも、お前らは暇じゃないだろうが」



 そう返したのはミシェルではない。どこか呆れた様子の声に目を向ければ、エリオットの背後に立つルイスと目が合った。ルイスの姿を発見したエリオットは自分の頭を抱えて彼から数歩離れる。



「ま、また殴るのかよ!?」


「……お前は子供か」



 ルイスはため息を落とすと左手を腰に添える。



「叱られたくなかったら真面目に訓練しろ」


「してるだろ」


「してないだろ」


「私もしてないと思う」



 ルイスの言葉にミシェルが頷けば、エリオットは両手で顔を覆った。泣いているふりをしているのだろうが、誰も心配などしない。ルイスはそんな彼に再びため息をつき、ミシェルに視線を移した。



「レオはシリルと手合せしてろ。偶には他の奴らに自分たちの腕前を見せることも必要だ」


「分かった」



 ミシェルが頷くとルイスは騎士の指導をしていたシリルを呼んだ。団長の一声で騎士たちが訓練場の中央から離れていく。先に訓練場の中央へ立ったシリルにミシェルは剣を抜きながら近付く。



(シリル……?)



 彼はミシェルの方を見ようとしなかった。その彼の様子にミシェルは小首を傾げる。


 ミシェルはシリルと対峙する。その段に至って、ようやく顔を上げた彼がミシェルを見た。その彼の瞳が暗く翳っていることにミシェルは気付く。彼がゆっくりと剣を抜いた。二人は剣を構える。それを見たルイスが開始の合図を放った。



「始め」



 初めに動いたのはミシェルだった。迎え打つシリルと剣を重ね、離れる。脇から狙ってくるシリルの剣尖をかわし、離れ、態勢を整え、攻める。脇を締め、隙を作らず下ろしたミシェルの剣はシリルのそれに抑えられる。重ねた剣身。シリルを見るとミシェルは声を潜めて言った。



「何を怒ってるの」


「……怒っていません」



 それを怒っていると言うのだろう。


 返ってきたシリルの声はあまりにも静かで単調だった。それは彼が憤怒している時のものだ。そして、その時には彼の集中力は極めて弱まっている。何度も剣を交えてきたからこそ、ミシェルは分かっていた。


 ミシェルは一度離れた彼と勢いをつけて剣を重ねる。彼が距離を取る、その前に彼の剣に己の剣を掬い取るように絡めると、そのまま弾き飛ばした。いとも簡単に彼の剣は宙を舞い、彼の数歩後ろに落ちる。金属の硬い音が短く鳴り響いた。ミシェルの勝利が決したのだ。


 辺りに拍手が沸き起こる。ミシェルは自分の剣を見詰めているシリルの傍へと歩み寄った。拍手の音に隠すようにしてミシェルは彼へと問い掛ける。



「もし私が何かしたのなら――」


「違います」



 シリルはミシェルに目を向けずに、答える。



「……貴女に苛立っているわけではありません」


「じゃあ何に怒っているの?」


「……」


「シリル?」


「……結局、俺は支えてなんかいない」


「え?」



 拍手の音が、疎らになる。しかし彼の独白は小さすぎてミシェルには上手く聞こえなかった。



「ちゃんと説明して。シリル?」



 シリルはそれ以上何も答えなかった。黙然とした彼は床に落ちたままになっている自らの剣を拾い、鞘へと戻す。そんな彼にそれ以上声をかけることができずにミシェルは彼の背を見詰めていた。



(何を、怒っているの?)



 シリルがルイスに断りを入れて、外に向かっていく。



(追いかけないと……――訊かないと!)



 そう思って足に力を入れる。しかし足を踏み出す手前で。



「レオ」



 ルイスに呼び止められてしまう。ミシェルは仕方なく彼に顔を向けた。



「次はエリオットと手合せを」


「あ、ああ……」



 ミシェルはシリルの出て行った出口を一瞥した。既にシリルの姿はなく、ミシェルは心中で深く息をつきながら再び訓練場の中央へ向かう。シリルには後で尋ねるしかないだろう、とミシェルは思う。あの様子だと答えてくれるかさえ分からないけれど。



「綺麗な髪」



 突然背後から聞こえたその声に振り返ると、ミシェルと同じ年頃の少女が一人立っていた。薄い茶色の髪をした彼女は深い紺色の瞳でミシェルを見ていた。柔らかそうな白雪の肌にフリルをふんだんにあしらったミントグリーンのドレスがよく映えていた。愛らしい顔をした少女は薄紅色の唇で弧を描き、微笑んでいる。その彼女に真っ直ぐな瞳を向けられたミシェルは彼女が誰だか分からず首を傾げた。女性の訓練場への立ち入りは禁止されているはずだが。



「えっと……」


「マルヴィナ様だ」



 エリオットの助言を聞き、ああ、とミシェルは合点がいった。


 マルヴィナ=ネヴァ・ヴァルナー、とはヴァルナー王国の第三王女の名前だ。既に第一王女と第二王女は嫁いでいるため、この宮殿内にいる王女はマルヴィナただ一人である、と先日エリオットから聞いていた。


 ミシェルは見詰めてくるマルヴィナに微笑みかける。



「マルヴィナさまの方が美しい髪をしていますよ」


「え……っ」



 ぽっとマルヴィナの頬が赤く染まる。白い耳も、透き通るような首筋も赤く色づき、そんな彼女の様子にミシェルは思わず笑みを零す。すると赤い頬を恥じらいながら、マルヴィナは口を開いた。



「あ、あの!」


「はい」



 相槌を打ったミシェル。その彼女の手を、マルヴィナはぎゅっと握り締めた。



「わたくしと遊びましょう! 訓練は終わったのでしょう?」


「いえ、それは……」



 掴まれた手をミシェルは見下ろす。何やら不穏な気配を感じ取ったが、下手に断ることはできない。ミシェルが困り果てていると、その様子を見ていたルイスがマルヴィナに言った。



「マルヴィナ様、訓練場にはいらっしゃらないでください。ここは女性の立ち入りが――」


「ねえ、ルイス。この方をお借りしても宜しいかしら?」


「……別に構いませんが」



 少しも耳を貸そうとしないマルヴィナにルイスはため息交じりに答える。無垢な少女の笑顔には朴念仁と噂されるルイスも敵わないらしい。彼は呆れきった顔でミシェルを見遣った。



「お前はよく王族に好かれるな」


「……」



 ミシェルは返す言葉もない。思わず苦笑を零した彼女はマルヴィナに手を引かれて訓練場を出た。マルヴィナに手を引かれるままに歩き続け、宮殿内にある彼女の部屋に連れて行かれた。部屋の中には彼女のお目付け役らしい人物の姿も見えず、ミシェルは扉の近くで立ち尽くしてしまう。


 マルヴィナからすれば室内に男性と二人きりという状況なのだ。普通なら戸惑う場面ではないだろうか。寧ろ、このようなことがあっていいわけがない。だが、ミシェルのそんな気持ちなど知る由のないマルヴィナはテーブルに置かれた大きな白い箱の蓋を取ると、ミシェルに微笑みかけた。



「ねえ、これを見て?」



 そう言ってマルヴィナが箱から取り出したのは、綺麗な白いドレスだった。生地の滑らかさからして、シルクだろうか。繊細な薔薇模様の淡い青色のレースがドレスの袖口と襟元にあしらわれている。腰回りにつけられたリボンも淡い青色で、スカートは幾重にも段になり、その裾一つ一つにも胸元と同様のレースが施されていた。よく見れば生地自体にも薔薇の刺繍がされており、同系色の糸のため近付かなければ見えないというのに随分な拘りようである。



「これ、今日出来上がったばかりなの。素敵でしょう?」


「ええ」



 無邪気に笑うマルヴィナにミシェルは薄く微笑して答える。すると、マルヴィナはそのドレスをミシェルに差し出した。



「着て」


「……はい?」


「あなたが」


「……私が?」


「そうよ」


「……私は男ですが」


「でも、似合いそうだから」



 思わずミシェルは絶句してしまう。そんな彼女にマルヴィナは愛らしく首を傾げて見せた。



「ね? お願い」


「……」



 彼女はこの国の王女だ。彼女からすればミシェルはこの国の民。今のミシェルは王女からの願いを無下に断ることなど出来ない立場だ。そう思い、ミシェルは顎を引いた。



「分かりました。着替えますので、マルヴィナさまはしばらく外に出ていただけますか?」


「ええ。それじゃあ、その間にお紅茶とお菓子を用意してくるわね!」



 そう言って笑顔を零したマルヴィナは律儀にもコルセットとペチコートやドロワーズまで用意して部屋を出て行った。ミシェルは一人になった室内で制服のタイを緩める。



(何でこんなことに……)



 ぶつぶつと小言を胸の内で呟きながらミシェルは慣れた手付きでドレスに着替え、最後に結っていた髪を解いた。背中に波打ち流れたミルクティブラウンの髪を手櫛で整えると、ミシェルは姿見で自分の姿を眺める。


 コーデリアで流行っていた針金製とは違い、ヴァルナーのペチコートは難なく座ることもできるやわらかい素材にも関わらずしっかりとスカートの膨らみを出している。ドレスの軽やかさと自分の姿の珍しさも相俟って、ミシェルは姿見の前で一回転してみた。ひらり、と舞った裾から足首がちらりと見えた。小さい頃、ドレスで王城内を走り回っては姉に叱られていた日々を思い出し、思わず小さく笑い声を立てる。



(……不思議ね)



 ドレスを纏った自分の姿は、女性にしか見えなかった。まさかドレスを身に付ける日が再びやってくるなんてミシェルは思ってもみなかった。そっと姿見に映った自分の頬に触れてみる。そこにある自分の顔は、どこか哀しそうで、寂しそうで。きゅっと胸が痛んだ。



(私……)



 女性であることを捨てると決めたのは、ミシェル自身だ。それなのに甘いドレスは苦しいほどにミシェルの心を弾ませる。


 許されることではない。


 ミシェルにはやらなくてはならないことがある。そのために、名前を偽り、性別を偽り、ここまで来たのだ。あの日生き残った自分にできることなんてたった一つしかなかったのに。それなのに、ここに来てミシェルの心は信じられない速さで弱っている。気付いてはいけないことに、きっと気付き始めている。



「……――シリル」



 彼の顔を見れば、薄れ始めた決意が強まる気がする。いつだって彼に支えられてミシェルはここまで来たのだ。ここまで必死で生きてきたのは、ミシェルだけではない。



(だめ)



 姿見に映る自分の姿を見ていると、苦しさは増すばかりだ。ミシェルは鏡に背を向けるとドレスの腰に飾られたリボンへと手を伸ばす。やはりマルヴィナの命令でもドレスは身に纏えない。そう思ってリボンに触れた時だった。



『マルヴィナ。僕だ』



 扉の向こうからノックと共に聞こえてきた声に、聞き覚えがあった。甘い響きを伴う、低い声。しばらくぶりでも聞き間違えるはずがない。


 ミシェルはドレスを脱ごうとしていた手を止めると、あたふたと部屋の中を動き回った。



(か、隠れ……!)



 こんな姿を誰かに見られるわけにはいかない。あの人物なら、なおさら。



『入るよ』



 待って、とミシェルが声をかけるより早く、扉が開いた。反射的にミシェルは傍にあったソファーの影に蹲る。心臓がどきどきと煩いほどに高鳴っていた。


 静かに開いた扉が、閉まっていく。



「マルヴィナ、用って何――」



 そこで、その声は途切れた。俯いた頭上に痛いほどの視線を感じ、ミシェルはそっと顔を上げた。扉の傍にはミシェルの予想通り、こちらを凝視して固まっているアーサーの姿があった。彼は目を瞬くと、不思議そうに首を傾げる。



「……何してるの?」


「これは……その、不本意で……」


「……マルヴィナのお遊びに付き合わされているのか」



 アーサーはぽつりと呟くとため息を落とす。ミシェルは彼から顔を背けたままそろそろと立ち上がった。その彼女をなおもアーサーは見詰めている。頬に彼の視線を感じながら、ミシェルは行き場のない両手を重ねる。指を絡めるようにして両手を握っていると、ふっとアーサーが笑うかすかな吐息を聞いた。どうしたのだろうと顔を上げたミシェルの目に、彼の微笑が映った。



「でも、よく似合ってる」


「……嘘よ」


「嘘じゃないよ」



 そう言われると、どうしようもなく落ち着かなくなる。そわそわとする気持ちを静めるように、ミシェルは重ねた手をぎゅっと握り締めた。首の後ろの方が熱を持ち始め、それを拭い去るように、ミシェルは口を開く。



「アーサーさま、は……その、何の用で……」


「マルヴィナが呼んでいたと言われたから来たんだけど。多分、新しいドレスでも見せたかったのだろう」


「新しいドレスって……」


「今君が着ているそれだろうね」



 ミシェルは自分が着ている白いドレスを見下ろす。それならば、あの王女は新品を初めて会った騎士に着せたと言うのだろうか。変わり者だな、と思っていると落としたままの視界に黒い革靴が映った。アーサーだ。


 はっとして顔を上げると直ぐ間近に立った彼と目が合う。彼は甘くやさしげな微笑を浮かべていた。



「うん、かわいい」



 その一言に、ミシェルの呼吸が一瞬止まる。彼の台詞を一蹴してしまいたかったのに、言葉は咽喉に絡まり、声にならなかった。そんな彼女にアーサーは言う。



「それと、二人の時は『様』を付けなくて良い。君は僕の民ではないから」



 声はなく、ミシェルは首肯するとそのまま俯いた。



(……何だろう)



 完全に彼のペースに巻き込まれているような気がする。


 不服に思って目を伏せていたら、何かが髪に触れた。軽く引かれるような感覚に顔を上げると、アーサーがミシェルの髪を一房、その細い指先に絡めている。思わず身を引いたが、すぐさまその腰に彼の腕が巻き付いた。睨むように彼の顔を見上げれば、目を細めた、どこか妖しさを漂わせる彼と視線が重なる。近付く彼の胸板を押し返しながら、負けじとミシェルは強く鋭い声音を飛ばした。



「……何?」


「うん。どうすれば女性の格好をした君とデートができるかを考えてる」


「……冗談ばかり」


「冗談じゃないと言ったら?」



 え、と驚く声と同時にミシェルは目を見開く。その彼女の額に吐息がかかるほど近くに、彼が顔を寄せた。



「そうしたら一緒に出掛けてくれる?」


「……からかわないで」


「反応が面白いから。つい、ね」


「……」



 むすっとミシェルが顔を顰めるとアーサーはようやく腰から腕を離した。その時、タイミングを計ったように扉が開かれ、そこからマルヴィナが姿を現した。戻ってきた彼女の腕にはどこから持ってきたのか、淡い青の靴が抱えられていた。ミシェルのためにどこからか借りてきたのだろうか。



「あら、お兄さま」


「マルヴィナ。お前は呼びつけておいて部屋にいないなんて」


「ごめんなさい。でも、わたくしはドレスを着ないことにしたから来て頂かなくても良かったのよ」


「……まあ、いいよ」



 悪びれる様子のないマルヴィナにアーサーは呆れた吐息をつきながらも小さく笑うとミシェルに目を向ける。



「珍しいものが見えたからね」


「あら。じゃあやっぱり噂は本当なの?」


「……噂?」



 マルヴィナが発した単語にアーサーが訝しげに眉を顰める。


 やはり彼はあの噂を知らないのだろう。ミシェルはマルヴィナから受け取った靴を床に置きながら、そう思う。噂とは本人の知らぬところで知らぬうちに広がるものだ。


 マルヴィナは首を傾げているアーサーににこにこと笑顔を浮かべたまま言った。



「お兄さまが男色だってもっぱらの噂よ」


「僕が? 男色? ……ふふ、まさか」


「それで九年も女性とお付き合いしないんじゃないかって。あの女好きだったアーサー王子が誰とも噂にならない理由が分かったって言われているのよ」


「……」



 マルヴィナがそこまで話すとアーサーは片手で目元を抑えた。形の良い唇の隙間から深い吐息を落とす兄をマルヴィナは不思議そうに見つめる。



「お兄さま? どうされたの?」


「……僕は皆の想像力の豊かさに感動しているところだ」


「まあ。それでは嘘なのね?」


「事実だと思われるとは思わなかったよ」



 アーサーが苦笑すれば、マルヴィナが小さく笑い声を零していた。ミシェルはその二人を尻目に靴を履く。サイズは少し大きかったが、歩けないほどでもないだろう。それを確認していると隣に近付いてきたマルヴィナがミシェルの顔を覗き込んだ。



「レオさま、一緒に庭園へ行きましょう?」


「庭園へ?」


「ええ。そこにティータイムのご用意をしましたの」



 マルヴィナはミシェルが返事をする前に彼女の手を掴む。それに戸惑いながらミシェルが首肯すれば、マルヴィナは笑みを浮かべた。そこへすかさずアーサーが口を挟む。



「僕もご一緒しても?」


「だめ」



 首を左右に振りながらマルヴィナはミシェルの腕に自分の腕を絡めた。お気に入りの玩具を取られることを嫌がる子供のように彼女はアーサーを睨み上げる。



「レオさまはわたくしと遊んでいるの」


「そう。それは残念だ」



 アーサーは肩を竦めてすんなりと引き下がるとフロックコートを翻して部屋を出て行く。その彼の腰に差された剣をミシェルは自然と目で追っていた。



(そういえばこの二人……)



 不意に頭を過った考えにミシェルが顔を顰めていると、そんな彼女に笑みを向けたマルヴィナが彼女の手を引いた。



「行きましょう、レオさま」


「はい」



 マルヴィナに手を引かれるまま、ミシェルは部屋を出た。広く長い廊下ではやはり人には擦れ違うことがない。この宮殿内では幾人もの使用人が働いているだろう。それならばなぜこれほどまでに閑散としているのか。ミシェルとマルヴィナの靴音ばかりが高い天井に反響していた。


 ミシェルはマルヴィナと共に階段を下り、宮殿の庭園へと移動した。周りを薔薇に囲われた、濃い甘さが香る空間だ。空には白く大きな雲がゆっくりと流れている。その庭園に設置されたテーブルの上に、ティータイムの用意がされていた。ミシェルは椅子を引いて先にマルヴィナを座らせる。自分も彼女の向かいの椅子へと腰かけた。


 紅茶を注がれたティーカップから、丸みのある茶葉の匂いが香ってくる。一口喉へ通し、ミシェルはそっと前にいるマルヴィナを盗み見た。薄茶色の髪は太陽の光を受けて少しきらきらと光り、陽の角度によっては金髪にも見える。だが、やはり月光を集めたように透けるアーサーのブロンドとは違う。



「……マルヴィナさまは……」


「なに?」


「……マルヴィナさまは、アーサーさまとあまり似ていらっしゃらないのですね」


「ええ」



 ミシェルの問い掛けにマルヴィナは顔色一つ変えずに、穏やかな声調で答えた。それから彼女は手に持っていたティーカップをソーサーに戻し、続ける。



「母親が違うから」


「違う?」


「ええ。わたくしのお母さまは二番目の王妃なの。……レオさまは知らないの?」


「あ、いえ。剣術に励んでいたもので……」


「そうね。円卓の騎士になるくらいですものね」



 マルヴィナは少しも怪しんでいない様子で頷き、ティーカップを口へ近付ける。その彼女から視線を離し、ミシェルは目を細めた。



(母親が、違う……)



 それにしても似ていない、とミシェルは思う。母親が違うとしても父親は同じだろう。だが、マルヴィナとアーサーは瞳の色も異なれば髪の色も違う。顔立ちも随分と違うようだった。それを別段自分が気にするものでもないけれど、とミシェルは紅茶を口へ運ぶ。


 かちゃ、と小さな物音はマルヴィナの手許から。ティーカップをソーサーに置いたマルヴィナは小さく苦笑のような、寂しげな笑みを浮かべていた。



「そう思うとわたしは幸せ者ね……」


「え?」


「……わたくしは、お母様にそっくりだから」



 どういう意味だろう。


 反射のようにミシェルが首を傾げれば、マルヴィナは続けた。



「お兄様は、お母様にもお父様にも似ていらっしゃらなかったって。それで前王妃様は不倫を疑われて十八年前に自害したと聞きましたわ」



 ミシェルは言葉を失い、瞠目する。その彼女にマルヴィナは笑い掛ける。その微笑が翳って見えたのは、きっと気の所為ではないだろう。そんな彼女からミシェルは宮殿へと視線を上げる。


 閑散とした、人気の薄い宮殿。コーデリアよりも豊かなはずの、この国の宮殿は物寂しい空気を纏っている。この宮殿で過ごす彼女と、彼のことを少しだけ考えて、ミシェルは視線を落とす。あたたかな紅茶の、やわらかな匂い。それにそっと口をつけていると、マルヴィナが立ち上がった。



「お茶のお代わりを貰ってきますわ」


「それなら私が――」


「良いの。わたくしがお茶に誘ったんですもの」



 マルヴィナはミシェルの声に被せてそう告げると、ティーポットを両手に抱えて背を向けた。その背を向ける直前に見えた彼女の顔に涙の気配を感じて、ミシェルは彼女を引き留める手を引っ込めた。遠くなる、彼女の背。それを見詰めていると、彼女が出て行ったのとは反対側から人の気配を感じた。



「マルヴィナは余計なことを話すね」



 不意に聞こえたその声に目を向ければ、庭園の入り口に立っているアーサーを見付けた。近付いてきた彼はカップに残った紅茶に目を落とす。その彼の顔に浮かぶ、小さな微笑。


 初めて会った時は冷淡だとさえ見えた彼だった。その時の彼には表情など皆無に等しく、冷たさばかりが目立っていたはずだ。だが、今ではよくミシェルの前で笑う。何かを隠すように、覆うように、彼は笑っている。


 ミシェルの頭に、先程までのマルヴィナとの会話が蘇る。


 アーサーの母は自害したのだと言った。彼が彼女に似ていなかったばかりに、疑われ、虐げられ、命を落とした。その話をマルヴィナがミシェルにしていたのを、彼はこっそりと聞いていたのだろう。――それなら、なぜ。


 無言のミシェルに微笑したアーサー。その彼を見たまま、ミシェルはゆっくりと口を開いた。



「貴方は、どうして笑うの?」


「……」


「少しも、おかしくなんてないのに……」



 ミシェルは今でも自分を生かすために死んでいった者達を思うと、胸が抉られるように痛む。呼吸すら憚れるその絶望に、後悔に、ミシェルは何度心を殺しただろう。当時のことを思い出せば、ミシェルは上手く笑うことなどできない。引きつった、猫のような笑顔を浮かべることしかできない。それなのに、彼はこれほどまでに美しく、けれどどこか儚く笑うから。


 アーサーは困ったように口元に笑みを乗せると、一つ吐息を零した。



「笑っていれば良いことがあるかもしれない、と……そう言ったのは、君なんだけどね」


「え……?」



 彼の言葉の意味が分からずミシェルは首を傾げる。その彼女に彼は隙のない笑顔を浮かべて、一歩後ずさる。



「マルヴィナが戻ってくるまでに行くよ。見付かったらきっと怒られるからね」


「……」


「どうぞ、ごゆっくり。楽しんで」



 そう言って背を向けた彼。



「アーサー」



 ミシェルは立ち上がると、考えるより早く彼を呼び止めていた。振り返った彼が不思議そうに首を傾ぐ。



「何?」


「あ……」


「うん?」


「……」



 ミシェルは口を噤む。だが、それで去ってくれるはずもなく、アーサーは黙ってミシェルの言葉の続きを促していた。ミシェルは彼から視線を外すと、呟くほどの声で言う。



「どうして、貴方は私に関わるの?」


「……」



 アーサーは呆気に取られたように一度口を閉じてから、小さく笑った。



「どうしてだと思う?」


「え?」



 質問に質問で返され、ミシェルは目を丸くする。その彼女を面白そうに笑って、アーサーは身を翻した。



「じゃあね、ミシェル」



 そう言って遠ざかっていく彼にミシェルはさらに尋ねようと口を開いたが、結局は何も訊けず椅子に腰を落とした。



 ――どうしてだと思う?



 先ほどのアーサーの声が、鼓膜に張り付いて離れない。



(知らないわ。私が、聞きたいのに)



 膝の上に置いた両手をぎゅっと握り締めて、ミシェルは眉根を寄せる。


 アーサーは未だにミシェルが女性であることを誰にも話していないようだ。彼はミシェルがどのような想いを抱いてこの宮殿に紛れ込んだかも知っているはずだ。それなのに、彼はミシェルを咎めることがない。その上、王女であるマルヴィナと共に話をすることも止めようとはしなかった。


 彼の行動が、理解できない。


 不思議と恐怖は沸かないが、彼の言動が理解できないことで腹の底にもやもやとした不快感が宿っている。それは雲のように日々増幅していく。彼の行動が理解できたら、この不快感は消えてくれるのだろうか。


 ミシェルは紅茶の最後の一口を飲み干すと、目を閉じる。耳から入る音は風のそれに時折鳥の囀りが混じる。閑散としてばかりに感じた宮殿の静寂も、強ち悪くはないのかもしれない。そう思っていた時だった。



「レオさまっ」


「マルヴィナさま?」



 耳を突くような声に目を開ければ、ドレスのスカートを持ち上げたマルヴィナが早足にこちらに近付いて来ていた。どこか慌てた様子の彼女を見ると、ミシェルは椅子から立ち上がる。そうして彼女の傍に寄ると、問い掛けた。



「どうしたんですか」


「あちらにっ……薔薇園に、見たことない方々がいて……」


「見たことのない方?」



 マルヴィナが指差した方を見たが、それは宮殿の影になっていてミシェルからは確認できなかった。相も変わらず慌てた様子のマルヴィナがミシェルの腕を掴み、訴える。



「ルイスに知らせに行かないと……っ」


「落ち着いて下さい、マルヴィナさま」


「でも……!」


「私が様子を見てきますから」



 そう言って彼女の顔を覗き込み、ミシェルは微笑む。子供をあやすように、そっと自分に触れる彼女の手に手を重ねた。



「マルヴィナさまは、こちらにいてください」


「でもっ」


「大丈夫です」



 大丈夫、ともう一度繰り返してミシェルは腕に掴んでいるマルヴィナの手を離させる。



「直ぐに戻りますから」



 マルヴィナの指先は震えていた。ミシェルにはそれが幼い頃の、七年前牢の中で何もできずにいた弱い自分の姿と重なって見えた。


 ミシェルは彼女の手を離す直前、少しだけ力を込めて彼女の手を握った。それがどれほどの効き目があるのか、ミシェルには分からないけれどただ手を離されるよりもマシだろう、とそう思った。



「本当に?」


「ええ」



 首肯してミシェルはマルヴィナに背を向ける。そのまま、振り返ることなくマルヴィナの示した方へと歩き出した。マルヴィナに言われた通りの場所をそっと窺い見た。しかし、そこには薔薇園が広がるばかりで人の姿などなかった。


 マルヴィナの見間違いだったのか、それともどこかに移動してしまったのか。考えながら、やはりルイスに知らせに行くべきだろう、という考えに至る。宮殿の警備は騎士団が担っている。不審人物を見付けたのなら、ルイスに報告するのが最善のはずだ。



(戻ろう)



 もし侵入者が移動したのならば一人残してきたマルヴィナが心配だった。ミシェルがドレスの裾を翻し、背後に振り向こうとした。――が。


 背後から伸びてきた腕に羽交い絞めにされ、ミシェルは口に布を当てられた。



「っ……――」



 ミシェルは驚き、呼吸が止まる。だが、次の瞬間には防衛本能が働き、もがいた。その拍子にミシェルは布越しに深く息を吸ってしまう。


 視界が、くらり、と波打った。


 鐘の残響のような揺らめきが、頭の中で起こる。何が起こっているのか理解する間もなく、両足から力が抜け、地面へと崩れていく。しかし顔面が地面に接触する直前、掬われるように腹に太い腕が回っていた。



(……な、に……?)



 重みに耐えかねたように瞼を下ろす。見えない相手に軽々と担がれた身体は、鉛を詰め込まれたように重く、呼吸すら億劫なほどに怠かった。


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