(6)
報復とは、誰のためにするものなのだろう。
ふとミシェルは寝台の縁に座ってそんなことを思った。既に陽は落ち、眠る仕度も整っている。騎士団の宿舎は静まり返り、訓練に疲れ果てた彼らは深い眠りに落ちているだろう時刻。ミシェルの頭は疲労感を覚える身体とは裏腹に眠気を感じていなかった。窓から見上げた濃紺の空には弓張り月が浮かんでいる。それをぼんやり眺めながら、ミシェルは昨晩のことを思い出していた。
死した者のために、報復を。
そう胸に刻み込んだミシェルは短剣を胸に抱き、国王の部屋に向かった。けれど、結局彼の子であるアーサーに阻止される始末となってしまった。早くしなければ、国王は病に殺される。その前に手をくださなければならないと分かっているのに、ミシェルは今、こうして自分の部屋から出ずにいる。その彼女の耳に、蘇るアーサーとの会話。
――貴方だって、将来英雄になるのよ。
――……ああ。全く以て皮肉な話だ。
そう言って彼が寂しそうに俯いたのは、なぜだろう。父親の跡を継ぐのが嫌だとでも言うのだろうか。その上、国王を殺そうとしたミシェルを今もこうして野放しにしている。小指を絡めるだけの、そんな約束一つで絶望と報復に胸を焼いた人物を抑え込めるとでも思っているのだろうか。
(でも……)
胸に浮かぶのは、怒りではなかった。苛立ちでもなく、寧ろ焦燥感に近い。その焦燥が一体何を意味するのか、分からぬまま何気なく右手の小指に視線を落としていたら、控えめに扉を叩かれた。
「……誰?」
『ミシェル様』
「シリル?」
どうしたの、と声をかけながら立ち上がり、ミシェルは扉を開けた。そこにはシリルの姿があった。彼を部屋に招き入れると、扉を閉める。
渋面の彼を不思議に思いながら見上げると彼は険しい声で言った。
「アーサーを信じて宜しいのですか」
「……信じるって?」
ミシェルには彼の言葉が何を示すのか、分からなかった。彼女が問い返せば、彼は感情を押し殺すように手を握り締めて口を開く。
「アーサーに貴女が女性だと気付かれました。誰にも告げないと彼は話しておりましたが、とても信じられません……。自分の父の……この国の国王の命を狙われて本当に黙っているわけがありません」
「……そうね」
シリルの言っていることは尤もだ。
ミシェルは彼の傍を通り抜け、再び寝台に腰を下ろすと続けた。
「私だったら間違いなくお父さまにご報告しているわ」
「それでは――!」
「でも」
少し声を張った彼を遮り、ミシェルは目を細める。その視線の先には、彼女自身の右手がある。白いその指と触れていた相手の熱いほどの体温を思い出し、ミシェルは吐息のような声を零した。
「なぜかしら……彼は誰にも言わないのではないかと思うの」
「ミシェル様……?」
怪訝そうに眉を顰めたシリルにミシェルは自嘲するような微笑を浮かべる。
ミシェル自身にもなぜ自分がそのようなことを考えてしまうのか理解できない。ただ、ワルツに誘った時に話したアーサーの言葉も昨晩ミシェルを止めた彼の言葉も、嘘ではなかったと感じてしまう。簡単に嘘をつけるような表情を作り台詞を紡ぐ彼の瞳からは時折ぞっとするような冷酷さを感じる。
あれは、人を疑うことで生き延びてきた人間の目だ。
その彼の瞳が、自分の父の話をする時、それから――ミシェルの居場所が騎士団しかないのだと知った時は無防備に揺れていた。
彼の全てを信じているわけではない。だがミシェルは今も騎士団にいる。それは事実だった。
「彼は父親が嫌いなのだと話していたわ」
「それも嘘かもしれませ――」
「そうかもしれないけど。でも……」
そこまで話した時、昨晩の出来事が再びミシェルの目前に蘇った。
国王を殺すことに躍起になっているミシェルにアーサーは暗に、無意味なこと、だと言った。それにミシェルが口にしたのは、貴方は何も知らないだろう、という子供のような泣き言だった。あれは、誰のための言葉だったのだろう。あの時の自分の言葉は誰を慮った言葉だったのだろう。
報復は何のためにするのだろう。死した者にはもう、心もないというのに。無念だと、言われたわけでもなかったのに。生きるために報復を誓ったけれど、そうして手を汚すことを、誰かの所為にはしなかったか。
「……ねえ、シリル」
「……何ですか?」
既に冷静さを取り戻したようで、シリルの声はいつもの凛としつつも淡々としたものだった。その彼を見上げ、ミシェルは問う。
「私は報復することが唯一死んだ国を救えることだと思っているわ。でも、貴方はどう思う?」
「……」
「貴方も、そう思うわよね……」
強い口調で言ったはずなのに、何だかその台詞は彼のやさしさに縋るようだった。再び俯けば、今は下ろしている髪がミシェルの顔をカーテンのように覆い隠した。そっと瞼を閉じれば、目前には暗闇が広がる。その闇の中では身体と闇との境界線が曖昧になる。それに溺れそうになるミシェルの頭上に、シリルの声が落ちた。
「分かりません」
それに顔を上げると、苦痛を思うように目を細めたシリルがいた。
「……俺には、分かりません」
シリルはミシェルを見ずに、自分の爪先に視線を落としていた。けれど声だけは強く決意を滲ませて彼は言うのだ。
「ただ、それが貴女の意志なら尊重するのが俺の決意です」
「……そう」
出会った日からシリルはミシェルに忠誠を誓ってくれている。母国を離れてから過ごした彼との七年を思い、ミシェルは小さく笑う。
「必死で、来たものね……ここまで」
「……」
それを思えば、ここで引き返すことなどできないのだ。
ミシェルは大きく深呼吸をすると、静かに立ち上がった。そして顔を上げてミシェルを見ているシリルに微笑みかける。
「少し外に出てくるわ。貴方はもう部屋に戻って休みなさい」
「……はい」
静かに頷いた彼の横を通り過ぎるとミシェルは部屋を出た。
夜風は肌に少しばかり冷たく、だが土の匂いをかすかに孕んだその空気が淀んだ気持ちを払ってくれるようだった。
広大な敷地には宮殿以外にも貴賓用の離宮が幾つも建てられている。そのどの建物よりも最も騎士団の宿舎が宮殿に近いのは、王の住まう宮殿で何かが起こった時にすぐさま駆けつけるためだ。
宿舎を後にしたミシェルがとぼとぼと行き先もなく歩いていると、気付けば宮殿の中庭までやって来ていた。庭園が近い所為か、薔薇の濃い香りが漂っている。それが昼間よりも強く感じるのは、静まり返った空間では視力よりも聴覚よりも嗅覚が勝っている所為だろうか。甘ったるい匂いを胸いっぱいに吸い込めば、自然と穏やかな気持ちになった。中庭に設置された噴水の縁に腰掛ける。ひんやりとした大理石の冷たさを腿の裏側から感じていた、――その時。
キン、と甲高い音が耳を刺した。
驚き、ミシェルは顔を上げる。すると、同じ音が再び夜の闇を弾くように鳴った。その音にミシェルは聴き覚えがあった。
毎日のように訓練場で聞いている、その音。
聞き慣れているからこそ、不気味さを感じるよりも先に身体が動いた。立ち上がったミシェルは音がする方へと駆け出した。その間も激しく金属のぶつかり合う音が静寂を裂く。
粟立つ肌。
渡り廊下から宮殿内に入ったミシェルは、曲がり角に浮かぶ人影を見た。
細い影が重なり合っている。影が引き、もう一方の黒が迫り、手に持つ凶器を振り下ろす。だが、その光景もそこまでだった。
ミシェルの足音が天井の高い廊下に反響するのとほぼ同時。攻めていた影が引き、姿を消した。
ミシェルはわずかに乱れた呼吸を整えながら、角を曲がる。そこに見えたのは、月光を浴びて輝く美しいブロンド。見覚えのある背に、彼から離れた位置で足を止めたミシェルは戸惑いながら首を傾げた。
「――アーサーさま?」
「……ああ、君か」
アーサーはミシェルの声を聞くと振り返る。その彼の右手がかすかな音を立てながら剣を鞘に戻していた。それを見たミシェルは言葉を詰まらせる。
(今……)
影だった。だが、ミシェルは確かに見たのだ。
人気のないこの廊下でアーサーは誰かと剣を交えていた。だが、激しく聞こえた剣のぶつかり合う音は訓練などという生ぬるいものではなかった。剣が振り下ろされるたびに明確な殺意が伝わってきたからこそ、ミシェルの肌は粟立ったのだ。
あれは、訓練ではない。
それならば、一国の王子が切っ先を向けられる理由は、一つしかない。そう思い立ったミシェルが口を開いたが、それよりも先にアーサーが言葉を滑り込ませた。
「このことは黙っていてくれ」
「でも――」
「黙っていろ」
彼にしては厳しい声だった。
ミシェルを鋭い双眸で睨むように見ると彼は低く凄めた声で言った。
「誰かに話せば、君の首を刎ねる」
「っ……」
冗談とも本気とも似通うことを言う彼に、ミシェルは舌を抜かれたように何も言葉を返すことができなかった。そんな彼女に、彼はそれまでの鋭い空気を少し和らげて、誤魔化すように笑う。
「お互いに秘密を握っているんだ。お相子だろう?」
その台詞で、ミシェルの疑惑が明確なものへと変わる。
――アーサーは命を、狙われている。
きっとそれは今に始まったことではないのだろう。その証拠に、彼の腰には見せびらかすかの如く剣が携えられている。護られる立場にある王子が、その命を自ら護るにはどのような理由があるのだろう。騎士団に要請すれば隙など与えないほど厳重な護衛がつけられるはずなのに。
ミシェルが困惑して言葉を紡げずにいると、彼はその彼女の傍に歩み寄った。目前に立った彼を驚いて見上げたミシェルに先ほどの出来事も言葉も嘘のように、彼はやさしげな微笑を彼女に向ける。
「そういえば、君の本当の名前をまだ訊いていなかったな」
「……」
「何て言うの? 名前」
そんなこと既に知っているだろう、とミシェルは思った。
彼はミシェルがコーデリアの第三王女であると知っている。それならば、ミシェルのことを既に調べ上げているはずだ。それなのに、わざわざミシェル自身に名前を訊くことに、一体何の意味があるのか。彼の意図が分からないまま、けれどミシェルは答えていた。
「……ミシェル」
「そう。ミシェルか」
ミシェルの名を口にしたアーサーは淡く微笑んだ。その微笑にミシェルの息が、止まる。
彼の笑顔など見飽きるほど見ているはずなのに、その時の彼の表情は痛いほどにミシェルの胸を締め付けた。月光を浴びた、彼が、どうしようもないほど、彼が儚くて。
「じゃあ、今日のことは内密に。頼んだよ、ミシェル」
そう言って背を向けた彼。
その袖を、ミシェルは頭で考えるよりも先に掴んでしまった。
歩み出そうとした足をぴたりと止めて振り返った彼は碧眼を見開いていた。
「……どうしたの?」
「あ……何でも……」
ない、と吐息のような掠れた声で返して、ミシェルは彼から手を離す。
(どうしてだろう)
ミシェルは夜の底を這うような日々を送ってきた。そんな場所で生活してきたのは、ミシェルが知る限り自分とシリルだけだった。そんな空気を纏った人なんて、今までどこにも存在しなかった。それなのに。
今、目前に立つ彼が自分よりも深い暗闇の、さらに深い場所にいるように見えた。
「……心配してくれているのかな」
アーサーは尋ねるでもなく、そう呟くと小さく笑ってミシェルの髪に触れた。ミシェルはびくりと肩を震わして硬直してしまう。しばし彼はその彼女の髪を何かを確かめるように撫でていた手をやがて離すと、彼は再び彼女に背を向けた。
「おやすみ、ミシェル」
硬質な足音を立てて去っていく彼の背はやがて、闇に埋もれるようにして消えた。




