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(5)

 微睡みの中で、アーサーは幼い自分の声を聞いた。もがけばもがくほど足は闇に沈み、助けを求めて手を伸ばした先には背中ばかりが向けられている。


 振り向くことのない相手の名を何度も呼んだ。幼い彼の声はやがて悲鳴を越えて金切声に代わり、涙が滲んで嗚咽が重なる。それでも彼女は振り向いてくれなかった。アーサーの金髪とは違う茶色の髪。幾ら呼んでも一度も振り向いてくれなかった。手に触れれば冷たく払われ、苛むように睥睨された。夢の中でさえ、アーサーは彼女を求めている。幾つになっても、どれほど成長しても、心にできた溝に響く冷たい音は氷の杭となり、彼の心を貫き続けている。


 夢の中でもアーサーは彼女の背を追いかけ、呼び掛け、けれどやがて。


 ――音もなく、彼女の首が胴から滑り落ちた。







 自然と覚醒するのと扉が軽く叩かれたのはほぼ同時だった。


 ソファーに沈むように座っていたアーサーはゆっくりと瞼を上げる。窓から差し込む日差しは既に随分と高い位置にあった。ソファーで眠っていた所為か、首が重く、固まったように痛い。首筋に手を当てながら、久しぶりにやらかした子供のような失態にアーサーは深くため息をついた。その彼の耳に再び扉を叩く音が届く。呼応するのも面倒で、どうぞ、とそれだけ声を返せば静かに扉は開かれた。



「アーサー」


「……ルイス?」



 室内に入ってきたのはルイスだった。騎士団の団長として用事があったのだろう、彼の手には書類が握られている。



「何か用か?」



 ルイスに尋ねるアーサーは深い吐息を落とす。まだ凝り固まっている首筋に触れながら、彼は思わず眉を顰めた。


 夢の名残の所為か、気分は随分と深いところまで落とされている。現実ではないとはいえ、未だに誰かを求めて彷徨う自分の姿はひどく惨めで、アーサーの胸に苛立ちを伴う不快感を広げた。



(無意味なことを……)



 そう思う度に頭に浮かぶのは、幼い自分が必死に手を伸ばした先に立っていた女性の姿だった。現実と同様に小さな手は結局彼女に指一本触れることさえ許されず、相手の顔は見えなかった。夢の中でさえアーサーはあの人の背中しか思い出すことができない。どれほど求めても届かないと分かっている相手を引き寄せようとするほど無駄なことはないとアーサーは知っている。その結果が何に繋がるかも、全て理解しているつもりだ。――それなのに。



「大丈夫か?」


「……ああ」



 自然と頭を押さえていたらルイスに声をかけられた。アーサーは曖昧に返しながら、ふっと唇に笑みを浮かべた。その彼の頭に昨晩の少女の顔が思い出される。彼女は国王の――アーサーの父の命を狙っていた。あの後直ぐに部屋に返したが、宮殿内の様子からして彼女は約束通り国王殺害を断念したのだろう。――もしくは、見送ったか。


 どちらにしろ、アーサーは父親の心配などしていなかった。どうせ、残りわずかな命だろう。一つだけ気がかりなことがあるとすれば、現国王が死去した後に王位を引き継ぐのが自分だということくらいのものだった。それに多少の億劫さは感じるものの、父親の命が惜しいなどとは少しも思ったことなどない。



(……だが)



 何より頭に引っかかるのは、あの少女のことだ。


 全てを失ったと言って、あの少女は涙を堪えていた。涙を流す方法を知っているうちは、まだ救いがあるのではないかとアーサーは思う。絶望の淵でもがいていられる間は、きっと救われる。


 自らの口からは名乗りたがらない少女。亡国の王女である彼女は哀しみの淵で、それでも生きようと必死だった。



「……僕とは、違う」



 ぽつり、と唇の隙間から零れ落ちた言葉は空気をわずかに震わす程度の小さなものだった。だが、それはかすかな音となってルイスの耳に届いたようで、彼は不思議そうに首を傾げた。



「アーサー……?」


「ごめん。独り言だ」



 アーサーは言い繕うと再びルイスに視線を投げる。



「それでどうした?」


「書類を渡しに」


「その書類は?」


「イラメダ王国からの返答だ。派兵は他国に頼むことにしたと言う」


「……それなら、せめて支援物資でも送るか。全てを無視したらこれからの外交に支障をきたす可能性がある」


「ああ」



 アーサーが右手を差し出すとルイスはその手に書類を置く。アーサーはその書類を目前のテーブルに放ると窓の外を見遣った。雲一つない晴天が広がっており、そこを鳥が横切っていく。青の中に落とされたその黒いシミを目で追うアーサーの傍らに立っていたルイスが踵を返す。



「そういえば、」



 そのルイスへ、アーサーは窓の外に目を向けたまま言った。



「レオ・マーヴィンはどうしている?」


「……レオ?」



 頷きながらアーサーが振り返った先でルイスは訝しげに眼を細めていた。



「あいつなら、朝から訓練場にいるが……」


「そうか」



 短く返したアーサーにルイスは険しい表情を崩さない。昨日、エルフの間に彼女を誘ったことをきっと彼は思い出しているのだろう。やがて口を開いたルイスからアーサーに厳しく硬質な声がかけられた。



「……アーサー」


「何だ?」


「さすがにお前のそういうところはあまり良く思えないんだが」



 それにアーサーは面白い話でも聞いたかのように笑みを零す。


 この宮殿内で、アーサーに口答えできるのはルイスくらいのものだ。十年来の付き合いである彼のその態度をアーサーは叱責しないし、何より彼は自分のことを友人だと思っていてくれていることをアーサーは知っている。


 アーサーは茶化すような視線をルイスに向け、笑い声を滲ませた声で言った。



「別に僕は男色ではないよ」


「……」



 ルイスは何か言いたげに口を開いたが、呆れたように直ぐに閉じてしまう。アーサーはその彼から組まれた自分の足に目を落とした。彼は澄んだ碧い瞳を一度ゆっくりと閉じ、深い呼吸を一つ。再び黄金色の睫毛を持ち上げた彼は背後に立ち尽くしたままのルイスには目を向けずに声をかけた。



「ルイス。来たくなければ、もうここに来なくてもいいよ」


「……何が言いたい?」


「お前にはそれだけのことをしたと思っている」



 安らぐように穏やかな声調は彼のその台詞にはあまりにも不釣り合いだった。その表情に浮かんだ小さな微笑も、無意味なことだとアーサーは分かっていたけれど。



「もう下がって良い」



 いつもの声調で伝えたはずなのに、その声は随分と感傷的にアーサーの中に響いた。その不快感も溢れそうになる感情も振り払うようにアーサーはソファーから立ち上がる。その背に離れていく足音が聞こえ、開かれた扉は小さな音を立てて閉まった。振りければそこにルイスの姿はなかった。


 アーサーは自らの右手に視線を落とした。昨晩絡めた彼女の細い指を思い出し、それと同時に泣き出しそうだった彼女の表情も頭に浮かぶ。彼女に近付けばどのような結果になるか、分かっているはずだ。そうだというのに耳の奥に残る彼女の声は止まない。全て失った、と嘆いていた彼女の姿。



「……――絶望、か……」



 再び一人になった部屋でアーサーは深い嘆息を零す。その吐息も声も誰の耳にも届くことなく、無機質な部屋の壁へと吸い込まれて消えた。


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