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(4)

(……ずっと、この日を待っていた)



 ミシェルは燭台の灯りの中で目を細め、目前の短剣を見下ろしている。七年前までは、人を傷付ける道具の使い方すら知らなかった。そんな小さく弱い少女が今では国で最も優れた騎士しか入ることの許されない円卓の騎士に選ばれている。


 剣を長く振るい続けてきた彼女の掌はいつの間にか固く、変わった。滑らかだった指先も踵も、今では淑女のそれとは程遠い。護られる立場だった体躯は報復を誓うと共に、剣を振るうために変わるしかなかった。コーデリアが亡国と化し、落城した国から逃げ出したミシェルが生き抜いたこの七年間は決して楽ではなかった。性別を男と偽り、それでも男になりきれないミシェルは何度もシリルに護られてきた。死した民と国のため、支えてくれた従者のため、ミシェルは自分の手を赤く染めることを厭わぬと決めたのだ。


 短剣は服の中に潜めた。足音を消し、部屋を出たミシェルは宮殿の廊下を進む。この時間には宮殿内は寝静まっている。静寂に包まれた宮殿がどこか幻想的に見えたのは、錯覚だろうか。自分の心音が鐘のように喚いている。暗闇の中に浮かぶ自分の心音を煩わしく感じた。身体の芯はこれほどまで冷めているのに、肌は熱を帯び、暑い。


 国王の寝室は四階にあった。長く広い廊下には月光が差し込み、灯りがなくとも目が慣れてしまえば不自由はない。廊下には病のために気配に敏感になった国王に気を遣ってか、人の姿がなかった。ミシェルは服の中の短剣の存在を確かめる。



(これでようやく……)



 全てを失って、七年。この晩、遂に報復を遂げる。


 ミシェルはゆっくりと瞼を下ろし、ゆっくりと呼吸を一つ。深く吐き出した息は、冷たく、震えていたのは、きっと気の所為だ。胸の内の龍が、騒ぐ。それを静め、ミシェルは目を開けた。そして扉を開くために白い手を伸ばした。――その時。


 背後から肩を掴まれた。驚く間もなく、身体を反転させられ、近くの壁に背中を押し付けられる。両手をそれぞれ掴まれ、壁に固定された。一瞬の出来事で、抵抗する暇すらなかった。



「っ……――」



 目を剥き、息が詰まる。そうして見えたのは、自分に覆い被さるようにして見下ろしている人物の姿だった。月光を背にした相手の顔がよく見えなかったのは、月明かりで目が眩んだ所為だけだろうか。



「……こんなことだろうとは思っていた」



 吐息と重なり呟かれた声。甘く、耳に絡みつくような低い声には聴き覚えがあった。


 ミシェルの心拍数は下がる様子もない。だがようやく月光の眩しさに馴染んだ瞳でミシェルは自分を押え付けている相手が誰かを認識することができた。



「――……アーサー、さま」



 声は震えてはいなかったが、緊迫感の中で水分を失い、掠れていた。


 光を背にした彼はミシェルを厳しい表情で見下ろしていた。その彼の顔に浮かんでいるのは、怒りではなかった。その彼の瞳は痛むように細められている。彼は彼女の手首を掴む手に力を込めた。



「ぁ……っ」



 骨が軋み、掌に力すら入れられなくなる。奥歯を噛み締め、痛みに耐える彼女が視線を床に落とせば、彼女の耳元に唇を寄せた彼は囁いた。



「君が手を出さずとも、あの国王は直に死ぬ」


「そんな、ことは――」


「今すぐ殺されるのと、病に伏せるのと……どちらが苦しむか、聡明な君になら分かるだろう」



 ――分かっている。


 彼の話している意味はミシェルも理解している。だが、理解していることをそのまま受けいれられるかどうかは、別の問題だ。


 ミシェルは彼の腕を解こうと再び両腕に力を込めたが、少しも振り払えそうになかった。悔しさと情けなさが胸に押し寄せ、ミシェルは腕から力を抜いた。それを確認したアーサーは彼女を開放し、だが直ぐに彼女の右手を掴んだ。



「ここでは人目につく。僕の部屋まで来てくれ」



 ミシェルは彼の手に引かれるまま、廊下を歩いた。窓から差し込む月光だけが、宮殿内を照らしている。自分の前を行く彼の背を見上げれば、月と同じ色をした髪が目に映った。やはり触れれば直ぐに溶けてしまいそうなほどやわらかそうで。彼の美貌も、どこか儚さを漂わせていると思った。


 大人しく彼の手に引かれながら、彼を殺してから国王を始末すればいいのではないか、と考える自分がいることにミシェルは気付く。彼は今、背を向けるほど無防備だ。そうだというのに、ミシェルは短剣を取り出すことができなかった。



(どうして……)



 手を引かれるままにアーサーの寝室に着くと、彼にソファーへ座るように促される。暗闇の中、ミシェルが窓から差し込む光で彼の様子を確認していると、彼は燭台の蝋燭に火を灯す。その彼の仕草全てが優雅で、ミシェルを警戒している様子はない。彼はミシェルの傍に腰を下ろすと、深い吐息を一つ落とした。



「薄々気づいてはいたが、」



 暗闇に彼の低く甘い響きを伴う声が浮かぶ。



「君はコーデリアの人間か?」


「……」


「それも王族……死体が見つからなかったのは、第三王女だと聞いた覚えがある」



 淡々とした口調で話す彼の頬に、蝋燭の炎の影が揺らめいている。ミシェルは表情を変えないように努めたが、彼には無駄のようだった。



「外れではないようだね」



 口元に薄らと笑みを浮かべたアーサーが目を細めた。彼の瞳は、どこまでも澄んだ碧い色をしている。だが、なぜだろう。やはりミシェルには彼の瞳の色に炎が見えた。



「母国を滅ぼした敵国の国王への報復、と言ったところかな」



 彼のその独白は、それまでに聞いたことのない温度のない声で。


 無意味なことを、と暗に言われている気がしてならなかった。



「君があんな男の血で、この手を赤く染める必要はない。こんなにも、綺麗な手をしているのに……」



 そう言って彼がミシェルの手に触れる。


 手の甲を滑る彼の指の熱。


 次の瞬間。彼の瞳があの日、――七年前にコーデリアを滅ぼした炎と重なった。



「――何も、知らないじゃない!」



 気付けば、ミシェルはアーサーの手を払っていた。声は悲鳴のように裏返った。自分の声に胸と耳を傷めながら、キッとミシェルは彼を睨め上げる。



「私のことなんて、何も知らないくせにっ」


「……それなら、」



 低く冷たい声音をした彼が冷たく睨むように目を細める。



「人殺しの父を持った僕の気持ちは、君には分かるのか」



 関係ない、と一蹴してやりたかった。それなのに彼と目が合った瞬間、ミシェルは口を噤んでしまった。


 真っ直ぐな瞳がミシェルを捉えている。何かを隠すためのように微笑ばかりを浮かべていた彼が、凛々しい表情をしていた所為かもしれない。



「君には英雄と殺人犯の違いが分かるか?」



 静かな問いかけに、ミシェルは反応すら示すことができなかった。その彼女から視線を外した彼は一瞬目元を歪めたが、直ぐに冷淡とした声で続けた。



「戦場で千人殺せば英雄と言われ、日常で一人殺せば殺人犯と言われる」



 彼は戦の話をしているのだろうか。その話は哲学にも真理にも似ていた。そんな彼の台詞をミシェルは下賤に嘲笑った。



「貴方だって、」



 ミシェルは彼の双眸を見据えて吐き捨てる。



「貴方だって、いつか英雄になるのよ」


「……ああ」



 揶揄の響きは憎悪すら滲ませた。けれど、彼は怒る素振りすら見せず、ただ苦く、どこか儚く笑うのだ。



「全く以て皮肉な話だ」



 そう呟き、俯いた彼が今にも消えてしまいそうで。そんな彼を留めようとするかのようにミシェルの指先がぴくりと動いた。だが、彼に伸ばされる前にミシェルはその細い指を丸め、そんな自分を諌めるように爪が食い込むほどに手を握り締めた。



(私、何をしようと……)



 この人を――あの国王の子を慰めようとでもしたのだろうか。


 ミシェルは全てを奪われたのだ。七年前に、ミシェルから全てを奪っていった国王の子を、憎く思うことはあっても慰めることなどあってはならない。握り締めた掌は硬く、とてもではないが女性のものとは思えない。その手を開き、見下ろす。ミシェルにはその掌が綺麗なものには見えなかった。人を殺す術を身に付けた、剣を握り締めることに特化した掌はきっと美しくなどない。


 その手を、再び掴まれた。あたたかな体温に手が包まれ、ミシェルは弾かれたようにアーサーを見上げた。彼は心さえ射るような瞳でミシェルを映している。



「とにかく君はもう、あんな男の命を狙うのはよせ」


「……」


「騎士団も辞めろ。君にあの場所は似合わないよ」



 ミシェルは彼から視線を外し、口を閉ざした。


 国王を殺害した後、ミシェルはここから逃走するつもりでいた。だが目前で、騎士団を辞めろ、と言われると素直に頷くことができない。そんな自分の感情が読めず、彼女は眉間を絞った。


 だが、沈黙は長く続かなかった。次の瞬間、あまりにも静かで、温度のない声が耳を打つ。



「辞めないと言うのなら、無理やり追い出しても良い」



 そう告げられた直後、彼に強く押され、ミシェルは背中からソファーに倒れ込んだ。痛みはなかった。反転した視界と覆い被さった彼に、呼吸が止まる。近付いた距離。彼の吐息を鼻先に感じ、頬を彼の髪が撫でていく。身を捩るが、それすら許されず、両手をソファーに縫い付けられた。手首にかかる相手の重さに恐怖が募る。


 顔を上げた先に見えた、彼の瞳の奥にはやはり炎が見える。冷たく焼くようなそれが途端にひどく冷酷なものに見え、ぞっとミシェルは総毛立つ。恐怖に煽られるままに顔を歪め、ミシェルはもがいた。



「いやっ、離し――」


「君は……」



 ミシェルの声に被せてアーサーが口を開いたその時、彼の背後に人の気配が現れた。彼の首筋に銀色の鈍い光を見付ける。それを短剣だと気付いたアーサーが不快に目を細め、首に添えられた剣を眇めた。



「……何だ、これは」


「ミシェル様に手を出したら、殺す……」


「……そうか」



 アーサーの首に刃を当てていたのは、シリルだった。殺気立った様子のシリルにアーサーはふっと笑い、ミシェルに視線を戻す。



「彼は、君の従者か?」



 蝋燭の炎。揺れる影。その中で、ミシェルはアーサーの首に喰い込もうとしている刃を見た。シリルが剣を引けば、アーサーは命を失う。そこまで考えたミシェルの頭に、七年前の父と母の姿が浮かんだ。胴と首を切り離され、晒された二人。克明にその光景を思い出してしまう。ミシェルは唾で乾いた喉を潤すと、静かな声調で言った。



「……シリル、やめなさい」


「ですが――」


「剣をおさめなさい」



 シリルは動かない。憎々しげにアーサーの後頭部を見下ろし、半眼した目尻を強く歪めていた。彼の心に宿る闇も感情も理解できてしまうから、ミシェルは決して強い口調では言えなかったけれど。



「シリル、やめて」


「……」



 シリルは唇を噛み締めると、ゆっくりとアーサーから剣を引いた。だが彼は間髪入れずにアーサーの服を掴むとミシェルから引き剥がした。床に落とされたアーサーが痛みに顔を歪める。


 ミシェルはシリルに助け起こされながら一つ息をついた。それからアーサーを見下ろし、告げる。



「私は、騎士団を辞めない」


「……なぜだ」



 アーサーは身体を起こす。やがて両足で立ち上がった彼をミシェルは見上げた。彼の碧い瞳で、蝋燭の炎が揺れている。その彼の目を見ていられず、ミシェルは彼から視線を外してしまう。けれどはっきりとした口調で言った。



「確かに私には人殺しの父を持つ貴方の気持ちは分からない。でも、貴方だって私の気持ちなんて分からないでしょう?」


「……」


「――……全部、よ」



 黙然とした彼に向けて続けた声は、掠れてしまった。言うつもりなどなかったのに、先程刃を首に当てられる光景を見てしまった所為なのか。過去の情景が眼球の裏に見る見るうちに広がっていく。


 燃えていく王城。龍のように蠢く炎が、全てを奪い去っていった。あの時の熱も声も感情も、全てが濁流としてミシェルの心を潰そうとしている。それに耐えるように手を握り締めて、浮かぶ光景を消し去るように強く瞼を閉じる。その彼女の口先から、言葉は深い悲憤の感情を滲ませて滑り出ていく。



「全部、なくなったわ、あの夜に。落城した、あの日。私は、帰る場所も、大切な人も、全部……」



 ミシェルは末っ子だった。王城では誰もがミシェルにあたたかな笑顔と愛情を与えてくれていた。その日向のようなあたたかさに包まれて生きていくものだと思っていた。ずっとではなくとも、せめて、あと数年は。


 それなのに、征服は一瞬。瞬く間に全ては夢と消えた。塵すら残さず、コーデリアは亡国と化し、残ったのは胸をどこまでも締め付ける哀しみと消えることの知らない絶望。全てを抱いて生きていく覚悟はできているのに、その決意が濃くなれば濃くなるほど心が片隅から死んでいく。



「そうか……」



 耳を打ったのは、アーサーの静かな声。


 それに顔を上げれば、目を細めて自分の爪先に視線を落とす彼がいた。



「あの場所は……騎士団は、君にとって帰る場所なんだね」


「え……」



 帰る、場所。


 言われてミシェルの頭にはエリオットやルイスの姿が浮かぶ。まさか、と笑い飛ばしてしまいたかったのに、言葉は咽喉に絡みついたように出てこなかった。その感覚にミシェルが当惑している間に、アーサーは俯く彼女の顔を覗き込む。



「それなら、僕にはその場所を君から奪うことはできないよ」



 今ではすっかり見慣れてしまった彼の微笑。目元まで緩めて微笑む彼は立てた右手の小指をミシェルに差し出した。



「その代わり、約束をして。あんな男の命なんて奪わないって」


「……」


「そうじゃないと、僕は君を見逃せない」



 そう言って笑う彼を見下ろすミシェルの蟀谷が悲鳴を上げるように痛む。眼球の裏にも焼けるような痛みを感じ、思わず唇を噛み締める。そんな彼女にやはり彼はやさしく微笑みかけて、無理やり彼女の右手の小指に自分のそれを絡めた。



「約束だからね」



 彼の手なんて、振り払ってしまいたかった。


 それなのに、ミシェルは何も言えずにただ瞼を伏せる。

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