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(3)

 ミシェルがシリルと出会ったのは、彼女がまだ七歳の時だった。


 王都からほど近い場所に領地を持つ公爵邸に招かれた帰り道、ミシェルは乗っていた馬車の小窓から王都へとかかる橋の上に小さな少年を見付けた。遠目に見ても分かった。その少年は橋から河へと飛び降りようとしていた。急いで馬車をとめたミシェルは兄の制止を振り切って、馬車を下りた。親らしき者の姿は近くになく、彼が纏う空気から孤児なのだろうとミシェルは判断した。実際に彼は近くの孤児院で生活していた。当時のミシェルには彼が死のうとする理由など分からなかった。生きることを、未来を諦めることなど考えられなかった。今思えば、なんと傲慢で恵まれた生活をしていたのだろう。この時、シリルの手を取ったミシェルは生きる理由をあげる、と彼に言ったのだ。



 ――私を、護って。



 何の力も持たない孤児をミシェルは拾った。その時の彼女は本当の絶望を知らない、無知で小さな少女だった。そしてそんな彼女の手を、生と死の間で彷徨っていた小さな少年は取ったのだ。


 その三年後、ミシェルは本当の絶望を知った。涙を流すことのできなかった彼女をあの日彼女の手を取った少年は護り抜いた。彼とたった二人で王城から逃げる中、ミシェルはまだ死ぬことはできないのだと思った。あの日、死ぬことを望んだ彼を引き留めたのはミシェルだった。生きる意味を与えた自分が自害すれば、きっと彼も後を追う。それを分かっていて、自分を殺すことなどミシェルにはできなかった。そうして生きる理由を、糧を、求めた末にミシェルはヴァルナーにやって来た。



「で、アーサー様の要件は何だったんだよ?」



 ミシェルが訓練場に戻ると開口一番エリオットがそう訊いていた。彼を挟んでミシェルの反対側に立っているシリルは訓練をしている騎士に目を向けているが、耳はこちらに傾けているのだろう。黙然と腕を組んでいる彼を一瞥し、ミシェルはエリオットに答える。



「私が騎士団に入った理由が気になったと言っていたよ」


「騎士団に入った理由?」


「ああ」



 ミシェルは頷き、気になったことを彼に尋ねる。



「エリオットは、なぜ騎士団に?」


「俺の場合は、大切なものを護りたかったからだな。……ルイスも同じだと思うぜ」



 そう言ってエリオットが視線を投げた先には厳しい表情で剣技の指導をしているルイスの姿があった。



 ――大切なものを護りたい。



 ミシェルも、大切なものを護るためにここまで来た。全てを失ったミシェルにできることなど限られている。



(でも……)



 ふとした瞬間に考えてしまうころがある。



(ヴァルナーの国王を殺した後、私たちはどうするのだろう)



 報復を糧に生きてきた命には、遂げてしまった後に何が残るのだろう。頭の片隅、霧のかかったその場所で長い間彷徨っていた考えが最近ミシェルの中でその存在を主張し始めている。



「レオは?」



 不意にエリオットに訊き返され、ミシェルは口籠ったが。



「私も似たようなものだよ」



 ミシェルは微笑む。偽りの微笑だとしても、今は本心を隠すためにも表情を隠すためにも、それは何よりも強い盾だった。


 再びエリオットが他愛のない会話を始める。ミシェルがそれに耳を傾けていると、不意に呼びかけられた。



「レオ」


「……アーサーさま」



 振り向いた先にいたのは、アーサーだった。彼はミシェルが目を向けたことを確認すると続ける。



「エルフの間に来て。先に行っているから」



 アーサーはそれだけ告げるとひらりと身を翻し、訓練場を出て行ってしまった。エルフの間とは舞踏会が行われる広間のことだ。なぜそこに呼ばれるのか。一言も声を返すことができなかったミシェルが呆然と立ち尽くしていると、足音が後方で止まった。目を向けると、腕を組んだルイスが難しい顔をして立っていた。



「ルイス?」


「行って来い、レオ」


「訓練は……」


「訓練って……ここにいてもお前はエリオットと無駄話してるだけだろうが。とっとと行け」



 ルイスの言葉は的を得ている。ここにいてもエリオットと喋り、適当に騎士の相手をするだけだろう。下手に王子の命令に逆らうのは危険だと判断し、ミシェルは訓練場を後にすると、エルフの間へ歩き出した。


 昼間だというのに、この宮殿では廊下で人と擦れ違うことは滅多にない。ヴァルナーは大国であるはずだ。それなのに、ミシェルの生まれ育ったコーデリアよりも、殺風景に感じるのはなぜなのだろう。


 エルフの間に到着すると、部屋の中央に立つアーサーの後姿が目に入った。天井を見上げている彼の視線を追えば、女神と天使の絵が一面に描かれている。天国をイメージしているのだろう。



「やっと来た」



 その声で視線を下ろせば、こちらに振り向くアーサーと目が合った。



「なぜ私をお呼びに?」


「いや、ちょっとね」



 彼が歩くと、広間に彼の足音が反響する。ゆっくりとした足取りでミシェルの前まで近付いてきた彼は静かな声調で問う。



「君はダンスを踊れる?」


「え?」


「ワルツは? 踊れるかな」


「踊れますが……」


「そう」



 彼の意図が分からないままミシェルが答えれば、それじゃあ、と続けた彼が彼女に手を差し出した。



「僕と、踊って頂けますか?」



 優雅な動作で差し出された彼の手。その手と彼の台詞に一瞬息を飲み、困惑を隠せないままミシェルは怪訝に顔を顰めた。



「ですが、どうして……」


「どうしてだと思う?」



 茶化すような声で首を傾げた彼は笑って、ミシェルに差し出す手を下げようとしない。そんな彼をミシェルが戸惑いながら眺めていると、彼はやさしくミシェルに微笑み掛けた。



「ほら。お手をどうぞ」


「……はい」



 恐る恐る彼の手に触れれば、次の瞬間には腰に彼の腕が回され、ぐっと引き寄せられた。彼の吐息が前髪を揺らしそうな位置に落とされ、戸惑う間もなく、始めるよ、と彼に告げられる。ミシェルは記憶を辿り、ステップを踏む。


 広いエルフの間の中で円を描くように体を動かす。視線を上げれば、彼と目が合う。やさしげな彼の微笑はなぜか儚く見える。そんな彼に息を飲みながら、ミシェルは首の後ろが熱を持つのが分かった。そんな彼女の反応に気付いたのか、くすりと彼は小さく笑った。



「本当はドレスを着てもらいたいんだけど」


「……」


「でも、それをすると君が女性だと皆に気付かれてしまうから」



 我慢する、と続けた彼は苦笑する。その彼の言葉と表情にミシェルは思わず笑ってしまった。



「この場面を誰かに見られたら、アーサーさまが男色だと噂を立てられますね」


「そうかもね」



 彼も同じように笑い、ミシェルの顔を覗き込む。



「君は、僕の心配をしてくれるの?」


「そのようなつもりでは……」


「うん。そうだと思ったよ」



 ステップを踏む度に、彼の髪が揺れる。窓から差し込む光が彼のブロンドを輝かせていた。そんな彼のやさしげに細められた瞳が、ミシェルを見下ろしている。吸い込まれるほど澄んだ碧眼が一瞬何も映していないように見えたのは、ミシェルの見間違いだろうか。刹那、胸を過った不安を拭い去るように彼の瞳を見上げたままで、ミシェルは口を開いた。



「あの、」


「うん?」


「……陛下のお加減は、大丈夫なのですか」


「……」


「アーサーさま?」


「あまり芳しくはないよ」



 一瞬口を閉ざした彼に首を傾げたミシェルに、アーサーは穏やかな口調で答える。



「最近は人が近付くことさえ毛嫌いするほど発狂していると聞いた。今はもう、寝室に一人でいることが多いのだろう。だから、側近では片付けられない仕事が時折僕にまで回されてくる」


「アーサーさまは陛下のお見舞いに行かれないのですか?」


「……君は意外と鋭いな」



 彼は『聞いた』と口にした。それはつまり、自分の目ではなく他人から得た情報ということだ。


 困ったようにアーサーはくすりと笑う。



「僕はあまりあの人が好きではない」


「どうして……」



 アーサーは何も言わずにただ微笑む。ミシェルがさらに言葉を紡ごうとすると、不意にステップを踏む足を止めた彼が彼女を強く抱き寄せた。驚き、呼吸を止めた彼女の顔を艶っぽく微笑した彼が覗き込む。



「口は災いの元、と言うよ?」



 唇が触れ合いそうな距離で囁かれ、反射のようにかっと顔が熱くなる。そんな彼女を面白そうに笑って、アーサーは彼女から身体を離した。



「良ければ、君の本当の名を教えてくれないか」



 静かな声だったと言うのに、天井の高いエルフの間に彼の声が反響する。ミシェルはその彼の質問にきゅっと唇を結んだ。それが拒否だと彼には伝ったようだった。彼は困ったような、寂しそうな微笑を零した。



「それじゃあ、気が向いたら教えて」


「……はい」



 アーサーの視線は再び天井へと向けられる。その先には天国を模したとされる絵画がある。天使が舞い、女神は微笑む。美しい絵画だと言うのに、ミシェルの心を痛いほどに締め付けるのは、沈痛の念。ミシェルは天井からアーサーに視線を落とす。天井を見上げたままのアーサー。


 その横顔が少し寂しそうに見えたのは、ミシェルの気の所為だろうか。


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