(6)
騒動の翌日。再度行われた戴冠式は厳かに進められ、無事にアーサーは新王に即位した。
貴賓の見送りを終えたアーサーを執務室に送り届けたミシェルは中庭へ向かう。空は青く、陽射しが緑に反射して目映かった。その中をミシェルは一人で歩いていく。そうして辿り着いた中庭で、ミシェルは白いドレスを身に纏ったレティシアの姿を見付けた。
「ミシェル!」
レティシアもミシェルとほぼ同時に自らの妹の姿をその目に映していた。彼女はスカートを摘まむとミシェルの傍に駆け寄ってくる。
「ああ、本当にミシェルなのね……生きていてよかった」
ミシェルの頬に、手に触れて、レティシアは涙を浮かべる。この世で唯一生き残った肉親に出会ったのだ。レティシアの反応は正しく、また彼女の顔を見たミシェルの目にも涙が滲んだ。
「お姉、さまっ」
言いたいことはたくさんあったのに、ミシェルは何一つ口にすることができなかった。ただ彼女の胸に抱き着いて、顔をうずめる。嗚咽の合間で深く息を吸い込めば、苦しいほどに懐かしい姉の匂いがした。それだけでつらかった日々が少し和らいだ気がして、彼女の存在の大きさを知る。
そっとレティシアから離れる。姉の目はミシェルの泣いた量に負けないくらいに真っ赤に腫れ上がっていた。その顔を思わず笑えば、鼻を摘ままれる。その手をどうにか離させて、ミシェルは首を傾げた。
「陛下は?」
「既に馬車でお待ちよ」
そう返される声だけで、姉がどれほど夫から愛されているのかが伝わってくる。コーデリアが崩壊した時、政のために嫁いだ彼女は離縁されてもおかしくはなかった。そうだというのにそれでも自らの妻に、と傍に寄り添っていた彼女の夫の愛は深い。
レティシアはミシェルの手を掴むと、やさしく微笑んだ。
「私と帰りましょう、ミシェル」
「帰る……」
その懐かしい響きにミシェルの胸に言いようのない安心感が広がる。帰るところがあるのだ、と思ったと同時にミシェルの頭に、どこへ、と過った。
レティシアにとって帰る場所は、彼女の夫と暮らす国だろう。そう考えたミシェルの頭に浮かんだのは、なぜだろう。あれほど憎んでいたはずのヴァルナーであり、アーサーの姿だった。
「私と一緒に、ナディムに帰るのよ。陛下も是非にと仰せになってくださったわ」
「……お姉さま、」
レティシアの手に手を重ねて、ミシェルはゆるく首を左右に振った。
「私にとって、それは『帰る』とは言わないわ」
姉の手はあたたかかった。このまま彼女の手を取り、彼女と共にナディムへ行けば、懐かしいあの穏やかだった日々が手に入るだろう。だがミシェルにはそれができない。
彼女と共に行くことは、アーサーと離れることだ。
この国を出て、姉と共に生きる。それはとても素晴らしいことかもしれないけれど、ミシェルはその場所で自分が心から笑っている姿も、残されたアーサーの笑顔も想像できなかった。
レティシアは傷付いたような顔をする。想定できなかったわけではないのに、その彼女の表情にミシェルはたじろいだ。そんなミシェルの手を再びレティシアは掴む。
「いいから一緒に――」
「捕まえた」
レティシアに引かれた右手。その反対の手を、ミシェルは後ろから掴まれた。それにミシェルが目を見開いて振り返れば、そこには笑顔のアーサーがいた。
「見掛けないからどこかに隠れてるのかと思って、ずっと探していたんだよ。ミシェル」
「アーサー……」
驚いたのはミシェルだけではなかった。突然のアーサーの登場にミシェルを掴む手を緩めたレティシア。アーサーはその彼女の隙を見逃さず、すかさずミシェルの手を引いた。その力に抵抗することなく、ミシェルの身体は一歩下がり、その肩がアーサーに支えられた。
自分の手の中に戻ってきたミシェルに満足そうにして、アーサーはいつもの完璧な笑顔をレティシアに向けた。
「お姉様、申し訳ないけどミシェルは渡しかねます」
「お姉様!? 貴方にお姉様呼ばわりされる覚えは――」
「お姉様」
青筋を浮かべたレティシアにあくまでアーサーはそう押し切って笑う。大半の淑女ならば卒倒しそうな笑顔をレティシアに向けたまま、ミシェルの背後に立つ彼は彼女の身体に腕を回す。そうして彼は彼女の腹の前で手を組んで言った。
「だって僕は彼女に惚れてしまったんだ。きっと離れたら僕は死んでしまう。ね、ミシェル?」
「わ、私に同意を求められても……っ」
あたふたと腕の中で暴れるミシェルをアーサーは笑顔で眺めている。そんな二人の様子にレティシアは額に手を当てた。
「ヴァルナーの騎士団は女性の入団が認められていないはずではありませんか?」
「僕がすぐに訂正させる。それで問題はなくなるでしょう」
アーサーはレティシアに何と言われても、ミシェルを彼女の許に渡すつもりがないようだった。笑顔を向けながらもその下に隠した怖いほどのアーサーの拒絶をレティシアも気付いているに違いない。
レティシアはしばらく黙ったままミシェルを眺めていた。その瞳に浮かぶ哀しみも淋しさもつらさも、痛いほどミシェルに伝わる。
「ミシェル、どうして私がナディムに来るように誘うか、分かるわよね?」
「……ええ」
やがて放たれた姉の言葉に、ミシェルは強く頷いた。
「分かるわ……私もずっとお姉さまにお会いしたかったもの」
「……仕方がない子ね」
そう呟いたレティシアの顔に慈愛に満ちた苦笑が浮かぶ。そうして近付いてきた彼女はそっとミシェルの髪を撫でた。幼い頃にしていたように、大切に愛するように。
「たまに顔を見せにいらっしゃい。それから手紙を書くこと。条件はこの二つよ、分かった?」
「はい!」
「それと、貴方」
レティシアの双眸がアーサーに向く。それはミシェルに注がれていたものとは比べ物にならないほど強く、威嚇するような光を放つ。
「ミシェルを泣かしたら許さないわ。……絶対よ」
「ああ」
首を縦に振るアーサーはミシェルの隣に並び、彼女の手を握った。
「僕は愛した人は大切にする主義なんだ」
「その言葉、信じますからね」
レティシアの声にアーサーは強く頷いた。
レティシアを乗せた馬車が宮殿を出て行くと、アーサーはミシェルの顔を覗き込んだ。
「ミシェル」
彼の表情は心配そうにも、茶化すようにも見えた。
「泣いていたの?」
「……泣いたわ」
言いながら、ミシェルは彼から顔を逸らす。きっと目は赤く腫れあがり、頬には涙の跡がついているだろう。そんな惨めな顔を彼に見られたくはなかった。
「ミシェル?」
そんな彼女にアーサーはやさしく、諭すように言う。
「僕の前では、泣いてもいいんだよ」
「……できないわ」
「どうして」
「……恥ずかしいもの」
そう答えたミシェルを彼は小さく笑っただけだった。どこか楽しそうな彼の笑い声にミシェルは顔を顰める。そんなミシェルに構わず、アーサーは彼女の手を引くと歩き出した。
宮殿の中を二人で歩いていく。相変わらず人の気配のしない廊下を進んでいると、そういえば、と彼が思い出したように言った。
「まだ聞いてないな」
「何を?」
「君から」
ふと彼が足を止める。そうして彼はミシェルを真っ直ぐに見詰めた。
「僕は君が好きだよ。ミシェルは?」
「わ、たし?」
「うん。ミシェルは、僕が好き?」
その問いかけにミシェルは彼の顔を見ていられずに俯いてしまう。その耳が、顔が、熱い。どちらもきっと一目見て分かってしまうほどに赤いことは痛いほどに分かった。だから顔を伏せたと言うのに、彼は腰を屈めてまで意地悪くミシェルの顔を覗き込む。その顔に、浮かぶ笑顔は悪戯を仕掛けた子供と良く似ていた。その彼を見て、知っている、とミシェルは思う。彼は全て知っていて、それでもミシェルに言わせようとしているのだ。
「……前に、嫌い、だと言ったわ」
「うん。前にね」
「……そう。前に」
「今は?」
「今、は」
「うん」
「……」
「ミシェル、焦らさないで」
そう口にしたアーサーは苦しそうに、耐えかねたように顔を顰めている。そんな彼を見て、ミシェルはぐっと手を握り締める。
「す、きよ」
動きの悪い唇で、どうにか、掠れた声で告げた。途切れた言葉はそれでも彼に伝わったようだ。彼は満足そうに笑って、けれど首を傾げると言った。
「ごめん、よく聞こえなかった」
「っ……嫌いだわ、アーサーなんて!」
そう言って、ミシェルはアーサーの手を離す。そのまま歩き出そうとすると後ろから手を掬い取られた。そのまま手を引かれたミシェルの背がアーサーの胸へ当たる。
ミシェル、と囁く声に顔を上げると直ぐ近くにアーサーの顔が見えた。金色の、彼の睫毛が窓から差し込む光できらきらと輝いていた。その長い睫毛に覆われた彼の碧眼を見つめ返したミシェルにアーサーは微笑む。
「君に出会えて良かった」
昨日と同じ台詞を口にした彼はそのままミシェルの身体に腕を回す。その腕にそっと触れたミシェルの耳にアーサーの声が流れ込む。
「君が円卓の騎士に選ばれなければ、こうして今君といられなかったかもしれない」
でもね、と彼は微笑むと言葉を繋いだ。
「もし今と違う立場で出会ったとしても。それでも、僕は君を愛していたよ」
その台詞に彼の愛の深さを知って、ミシェルの瞳に涙が滲んだ。愛しさと恋しさで満ちた心に押し出されるようにして、ミシェルの唇が言葉を紡ぐ。
「……私も」
シリルと生きたあの日々を忘れたわけではない。ミシェルはヴァルナーを恨み、報復に胸を焼いた過去を忘れることはできないだろう。彼の父がしたことはきっとミシェルは生涯許すことはできない。けれど、それと同じくらいに彼がしてくれた全てを、ミシェルはきっと胸を焦がす想いと共に忘れることもないだろう。
「私も、貴方が好きだわ」
それでも狂おしいほどに胸を軋ませる、この痛みは愛だ。もしも違う出会い方をしていたとしても、違う身分だったとしても、ミシェルは彼を見付け出して、愛していただろう。
「ミシェル」
呼びかける声は、熱く、掠れていた。
「こっちを向いて」
耳朶を撫でる吐息に身体が震える。それでもどうにか足を動かして、彼と向き合った。途端に強く抱き締められる。背中に回った彼の腕の太さも、指の長さも、その全てがくっきりと分かるほどに強く抱かれた。
その腕の力を緩めた、彼の吐息を額に感じ、鼻先に感じ、唇に感じた。そっと重ねられた彼の唇に、呼吸まで奪われるようだった。そうだというのに、どうしようもないほどにやさしい口付けは、あたたかかった。
「ミシェル」
彼の声は、吐息。
掠れたその声で込み上げる愛しさに、ミシェルは瞳を閉じた。じんわりと膨れた涙がミシェルの瞳を焼く。その瞼の上に、アーサーはそっと唇を落とした。




